忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<生身にはない集中度

平倉 生身の私と文章の中の「私」は性格も違うと思うんですよね。生身の自分と、書き言葉の自分は別物。序章で少し書いているんですけど、生身の自分が作品を見て、パターンを観察して記述して、それを何度か繰り返して、それで文という体を作っていく。その文という体は生身の自分にはないような集中度があって。文章書く仕事って、言葉が素材なんだけど、その素材を自分で産み出さなきゃいけないのがいつも苦しい。粘土を自分の体から排出して、それでものを作っていく。編集とか校正のプロセスは私は好きで、直すのは楽なんだけど、初めに素材となる言葉を出すまでが本当に辛くて。1回1回出すのが重くて、その重いかたまりを削っていくんだけど、もとが重いからギューッとしちゃうみたいな。すごく感覚的な話ですけど、そういう書き方ですね。〔※私の場合、文章が最初の段階では全然読めたものではないんですよ。グチャグチャっとした見通しの悪いものを出してしまったあと、最低2日はかけて意味の通る文章になるように直していく。〕
 …………
 さっき断言の強さの話がありましたが、「なんでそんな強い断言ができるんですか」と聞かれたときに、自分が生きて死ぬ体はひとつしかないから、この1個分の体の権利で断言しているところがある。それは1個分の体以上の強さで言うわけではない。ただ文章にしたとき、特に研究というスタイルを取るために、自分1個の体を超える強さは出てしまう。そこを文章の私は制作しようとしています。
 …………
 前提を共有した私たち、とは簡単に言いたくないですね。私は決して私たちではない。「私たち」と言うときは「私」と言うときより挑戦的です。そこには奪取や攻撃や新たな共同性の作成がある。一方、「私」と言うときには隔離の要求があります。私に起きることはそのまま私たちに起きることではない。しかし論文の中で、「私」と言えるかどうか。芸術研究は常に主観をどう排除できるのかを問題にしていて、学問であるからには主観的じゃだめだ、印象を語っちゃだめだと。だから科学になるために、客観的に言えることだけを語ろうというふうに芸術諸学はやってきたと思う。でも芸術を研究している以上、「私」がどう感じたかということは絶対に除くことができない。芸術が私の知覚や情動や歴史に働きかけるもので、それが簡単に普遍化できないものである以上、除くためのやり方は色々あるけど、それを除いたら、そもそもなんで芸術の研究を始めたのかわからなくなる。かといって学問の普遍性要求を放棄してもつまらないんです。その間で、私の体と学問の間で、「私」という言葉をたんに自分自身を示す日常語というより、ひとつの理論的な用語として使って、「私」という概念や位置を使わなければ言えない問題について語りますよ、というのを示すために索引に入れてるんです。用語として意識的に使用していない箇所は外してあります。そのときの「私」は生身の自分ではなく、文によって構築される「私」です。」
(平倉圭×池田剛介「書くことはいかに造形されるのか」)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R