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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 物質は買収されない

「貴重な情欲の源泉としての生きた対象が、貨幣としての価値を持つことができるためには、ある精神状態がすでに全世界的に達成され、その精神状態が広く認知された実践や習慣のかずかずとしてあらわれているということを仮定しなければならないだろう。ということはつまり、そのためには、命を持たない貨幣が流通するのと同じ数量の生きた対象が必要になるということだろうか。おそらくそうではない。このような習慣が成立することで、貨幣の実用がまったくなくなると仮定してもである。しかし、命を持たない貨幣と平行して市場が成立している場合でも、生きた貨幣は逆に、習慣のなかに根をおろし経済的諸規範のなかで制度化された金本位制の、その金の役割に取って代わる力を持つだろう。ただし、そのあたらしい習慣は、交換行為のかずかずとその意味を、深く変えずにはいないだろうが。それらを変えることができるのは、命を持たない貴重な対象、たとえば芸術作品の交換ではない。そうではなくて、情感の源泉としての生きた対象は、ある場合には貨幣となり、金銭の中性化機能を排除するだろうし、さもなければ、手に入る情欲をもとにした交換価値というものを創設するはずなのだ。
 金。その価値は恣意的であり、その本来の無用性は、富のただなかで得られるあらゆる情欲のいわばメタファーでありつづけているのだが、──金は、その体制が全世界的に=普遍的に広がっているという事実によって、実用的であると同時に、非人間的なものとなっている。労働量による価値の諸規範は、経済的観点からすればあきらかにより「正当な」わけだが、まだ懲罰的性格を保持している。情欲の源泉である生きた対象は、交換の観点からすれば、その維持費用と同じだけの価値を持つ。それを養う偏執的所有者が、みずからにどれだけの苦労や犠牲を課したかが、その貴重にして無用な対象の価格をあらわすのだ。この価格は、需要以外の、いかなる数字によってもあらわされえない。ただし、生きた対象を交換可能な財として考察するまえに、まず貨幣としてのそれを検討してみなければならない。
 生きたものとしての貨幣は、給与額に対する等価物とならなければならないが──それに対して現物での物々交換の場合には、必要不可欠であるがゆえに価値が劣った財を購入することの可能性が、まず最初に凍結される──、同時にまた、生きた貨幣は本位貨幣として固定されることが必要である。」
(クロソウスキー『生きた貨幣』)
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