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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<反抒情の論理

「『死刑宣告』をまって、カフカは彼の初期の作品をロマンティスムの伝統的な圏内(現実に対する夢の優位、《俗物ども》の世界に対する主人公=詩人のことばによる報復)に入れていた幻想性を決定的に捨て、その代りに彼の芸術のもっともオリジナルなしるしである奇怪なレアリスムをおいた。以後、彼は主観性をそのぎりぎりの帰結にまでおし進めることを彼に許すテクニックを駆使する、主観性は彼の小説の唯一の観点でありつづけるが、その可能性の極限にまで進んで、もはや物語の中では決して主観性としてはあらわれない。もっとも大きな変化は当然主人公にあらわれる、主人公は自分の欲望についてしゃべり、自分の魂の状態を叙述していたのに対して、いまや彼は自分のなかで起ることをあたかも彼の魂の状態が外部に投影され、したがって、突如万人の眼に見えるものとなったかのように示す者となる。同じように、彼はもはや夢見るのではない。ストーリーが彼の夢、知覚しうるものとなり、スペクタルに変えられた彼の夢なのである。物語の絶対的に主観的で、内的で、夢に属する性質は、叙述の客観性を信じさせる視覚的イリュージョンをいっそう強める。なぜなら、厳密な論理で扱われて、それは夢、内的独白、内省、心理的な動機づけといった、人物たちをどのような空間の中で理解すればよいか、その空間をとりちがえようもなく指示するあらゆる要素の、抹殺をもたらすからである。それ自体ひとつの夢以外のなにものでもない物語の中へ夢を介入させることは観点の変化を導入したかもしれない、しかしカフカはそれをどんな場合にも自分に許さなかった。こういうわけで、『変身』の冒頭で(それは「いらいらする夢からさめたとき」に起った、と彼はいう)彼はグレゴリー・ザムザの冒険が夢でなかったことをはっきりさせる。ヨーゼフ・Kの悪夢を叙述したあと、彼はそれを『審判』のコンテクストから切り離し、別の短篇集に入れて発表する(『村医者』に収録された「夢」)。同様に彼は『審判』の本当の性質を最後にあばくヨーゼフ・Kの夢〔その章でKは、自分が心の奥底で他の被告たちの存在を信じていないことに気づき、彼は自分が「法廷」によって追求されるべき唯一の者であることを知る〕を削除する、そして、それは、つねに主観性がその反対物に転化し、ロマンのあらゆる既知事項の位置を変えるという原理を貫くためである。この原理はきわめてねばり強く適用されているので、カフカの全作品の中で、この原理が守られていない部分はほとんど見当たらないほどである。おそらく、この芸術、それが論理に属するのか魔術に属するのか判らず、それについてわれわれにいえることは、ただそれが支配する奇怪な境界の上では、夢が真実になり、それに対して、論理それ自体が呪縛の犠牲であるということでしかないようなこの芸術の魅惑は、この原理にこそ帰せられるべきであろう。」
(マルト・ロベール『カフカ』)
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