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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<苦痛-奴隷の通貨

「ここでこそ約束がなされる。ここでこそ約束者に記憶させることが問題となる。邪推してみれば、ここにこそ冷酷や残忍や痛苦の産地が見出されるのかもしれない。債務者は返済の約束に対する信用を起こさせるために、その約束の厳粛と神聖に対する保証を与えるために、また自分自身としては返済を義務や責務として内心に銘じておくために、万一返済しないような場合の代償物として、債権者との取り決めによって、自分がなお「占有する」他の何物かを、自分の手中にある物の何物かを抵当に入れる。例えば、自分の身体とか、自分の養女とか、自分の自由とかを、あるいは自分の生命をさえ抵当に入れる(乃至は、ある一定の宗教的前提のもとにおいては、自分の至福、自分の霊の救済をすら抵当に入れ、ついには墓の中の安静までも抵当に入れる。だからエジプトでは、債務者の死体は墓の中においてさえ債権者に対する不安から免れえないのである、──エジプト人たちにとってもこの安静が大切なものだったことは勿論である)。しかしわけても、債務者の身体にあらゆる種類の侮辱や苛責を加えることができた。例えば、債務の額に相当すると思われるだけのものを身体から切り取ることができた。──そこでは早い時代から、しかも到る所で、この観点から四肢や身体の各部分の精密な、時には厘毛の末を争うほどの価格査定、合法的な価格査定が行われた。ローマの『十二表法』(四五〇頃のローマの法典)は、このような場合に債権者の切り取る分量の多少は問題としない──《彼らにしてより多く、またはより少なく切り取りたりとも、そは不法とならざるべし》──旨を宣示したが、これはすでに、より自由な、より大まかな、よりローマ的な法律観の進歩であり、証拠であると私は思う。われわれはこの補償形式全体の論理を明らかにしよう。それは全く奇妙なものである。すなわち、等価ということは次のようにして成立する──直接に利益を受け取ることによって損害を補償するかわりに(従って金銭や土地など、何らかの種類の占有物によって補償するかわりに)、債権者は一種の快感──非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感──を返済または補償として受け取ることを許される。しかもこの満足感は、債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよいよ高く評価され、ややもすれば債権者にとって非常に結構な御馳走のように思われ、否、より高い地位の味試しのようにさえ思われた。債権者は債務者に「刑罰」を加えることによって一種の「主人権」に参与する。ついには彼もまた、人を「目下」として軽蔑し虐待しうるという優越感に到達する──……してみると、報償ということの本質は、残虐を指令し要求する権利に存するわけになる。──
 …………
 それ故に、この領域に、すなわち債務法のうちに「負い目」・「良心」・「義務」・「義務の神聖」などというあの道徳上の概念界はその発祥地を持っている。──あの概念界の発端は、地上におけるすべての大事件の発端と同じく、徹底的にかつ長らく血をもって染められてきた。そしてわれわれは、実際あの概念界に血と拷問の一種の臭いが全くなくなった試しはかつてなかった、ということを付け加えてはいけないであろうか(老カントにおいてすらそうだ。彼の定言命令は残忍性の臭いをもっている……)。「負い目と苦しみ」が初めてあれほど無気味にかすがいで留められ、そして恐らくは引き離しえないものとなったのも、同じくこの領域においてであった。繰り返して問うが、いかにして苦しみは「負い目」の補償となりうるのであるか。苦しませることが最高度の快感を与えるからであり、被害者が損失ならびに損失に伴う不快を帳消しにするほどの異常な満足感を味わうからである。苦しませること、──それは一つの真の祝祭であり、前述のように、債権者の階級や社会的地位に反比例して、ますます高く評価されるあるものである。」
(ニーチェ「第二論文──「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」)
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