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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<小説の形而上学

「脚に力を込めて彼はなんとかその場をよろめき離れた。彼は歩いて、さらに歩き続け何かを探し求めた──何か飲む物を。彼の脳は暑さに参り焦がれるように水を求めていた。彼は躓きながらも歩き続けた。そのうち彼は何事も感じられなくなってきた。歩くにつれ彼の意識は遠のいた。それでもなお、彼は口を開いたままよろめき歩いた。
 そして再び彼が眼を見開いて、世界を眺めた時には、物言えぬ驚きでもはや彼はその光景が何であるかを考えようとはしなかった。燦然とした緑金の色彩の背後に濃密な金色の光りがあり、そして切り立つような灰紫の条が並び、その奥には冥色が降りて、彼を取巻くようにより深く濃さを増していく。──遂にどこかに辿り着いたのかという意識が、彼にきざした。彼は今、現実の只中に、現実の深淵にいるのだ。しかし、灼けつくような渇きはまだ彼の脳裏を廻っていた。やや身体が軽くなったようにも感じられる。何か新しいものが開けつつあるのだ、と彼は考えようとした。大気は稲妻に轟いている。彼は自分の足取りが不思議なほど機敏になり、充たされる喜びへ向けて真直ぐに進んでいるように感じる──果たして彼は水のある場所へでも向っているのだろうか?
 それから突然、彼は恐怖に立ちすくんだ。一斉に燃え立つ黄金の輝きが途方もなく眼の前に広がった──ただ幾つかの縞のような暗い樹幹が彼を隔てているだけの間近に。辺り一面瑞々しい小麦の平原が、その柔らかな緑の上に磨かれた純金の眩さを放っているのだった。丈の長いスカートを穿いた黒い布を頭飾りに巻いた娘が、あたかも影の人型のように、緑の小麦の間を漲る光りを浴びながら通り過ぎていく。農家も見える──薄青い影と立ち木の黒の色調だ。金の細波に溶け去ってしまいそうな教会の尖塔も見える。娘はさらに移ろい、彼から遠離っていく。彼はその娘と通じ合えるどんな言葉も持っていなかった。彼女は、眩い一個の非現実の存在だった。彼女の発する言葉の響きは彼を当惑させるだけだろうし、彼女の眼は彼の姿を映すことなく彼を見つめることができるだろう。彼女は右から左へと横切っていく。彼は木に凭れて、ただ立ち尽くしていた。
 ようやく彼がその光景に背を向け振り返ると、眼前には草の疎らな林が下って広がっていて、その樹下の平らな地面にはもう夕闇が漂い、そしてさほど遠くないところに、不思議な光りに包まれた山並みが輝きに充ちて見えた。手前にある山の柔らかな灰色の尾根の奥にはさらに山々が金色に蒼然と聳え、まるで純粋で細やかな黄金のように、深雪が発光していた。山々は空に微光を揺らめかせ、ただ一に空の光りの鉱石から織りなされたように沈黙して、輝いている。彼はその光りを顔に受けながら、立ち止まって山々を眺めていた。そして黄金の光沢をもって輝く雪に呼応するように渇きが彼の内で、冴えた。彼は木に凭れかかり、立ったまま凝視していた。それから何もかもが虚空へ滑り去っていった。
 夜通し雷光が絶え間なく閃き、空一面を白く照らしていた。いつしか彼はまた歩き出していた。落雷に世界は彼の周囲で青黒く冴え、野原は水平に薄緑の光りにさざめき、木々は暗い巨体のようになり、黒々した雲の連なりが白い空を横切る。しばらくすると鎧戸のように闇が降りて、全てが夜に沈む。幽かにはためく世界の断片はもう暗闇から現れ出ることはない──と思うと、地面を青白い流れがさっと翳め、暗い物影が浮び上がり、頭の上を雲の連なりが渡っている。世界はもはや不断に全てを満たし尽くしてしまう純粋な闇の上に、束の間投げ掛けられる、幽冥の影にすぎない。
 …………
 朝になると、彼ははっきりと目を醒した。途端に彼の頭は咽喉の渇きを怖れる気持に灼きつくされた。彼の顔は陽光を浴びて、露に濡れた服は湯気に烟っていた。彼は何事も考える間もなく立ち上がった。彼の真正面に明け方の空の薄青い縁に沿って、青々と冷涼に優しげに山脈が連なり横たわっていた。するとその山々を、ただそれだけを渇望する想いが彼に生まれた──彼は自身を離れてその山々と一つになりたいと思った。山々は身動きすることなく沈黙して和らぎ、白い穏やかな雪の光輪を持っている。彼はじっと立ち尽くし、狂わしい苦痛を堪え、手を固く震わせては握りしめていた。それから突然、発作に襲われ、草の上に身を捻って倒れた。
 彼は夢に魘されるように物言わず身を横たえていた。そのうちに彼の咽喉の渇きそれだけが彼から離れ去り、一つの欲求のように独立の存在になった。次いで彼の感じていた苦痛も、一つの孤立した存在になった。また彼の肉体に支えていた錘りのようなものも、彼から切り離された。彼はあらゆる類いのものに自身が分断されていくように感じた。そのとりどりの孤立した存在の間には、何かしら奇怪な痛いような繋がりが仄かにあったが、しかし全ては互いに遠くへ遠くへ離れさっていく。そしていずれ一切が散り散りになるのだろう。彼を真下りに貫く太陽の礫が、その結びつきをも焼き切る。そうして何もかもが手放され落ちしきり永遠に推移する空間を潜って落ちていく。──とその時、彼の意識が再び力を取り戻した。彼は肘で体を起して揺らめき光る山脈を見つめた。それらは、まったき静けさと驚くべき姿で天空と地上との境に連なり浮んでいる。彼は眼が眩むまで、ずっとそれらを見つめつづけた──完璧に清く冷たく美しさを帯びて聳えている山並みは、あたかも彼の内で失われたものを所有しているかのようだった。」
(D.H.ロレンス「プロシア士官」)
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