忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ギリシャ的イロニー/ユダヤ的ユーモア

「プルーストがしているような、哲学の批判は、目立って哲学的でありうる。思考するひとの積極的意志や、あらかじめなされた決意には、もはや依存しない思考のイマージュを作ることを願わないような哲学者がいるだろうか。具体的で、危険な思考を夢見るたびごとに、その思考は、明白な決意や方法に依存するものではなく、われわれの意志にさからって、われわれを本質にまで導いて行く、出会った、屈折した力に依存するものであることは、十分に知られている。なぜならば、本質は、明晰判明の領域にではなく、あいまいな地帯に生きているからである。本質は、思考を強制するものの中に巻きこまれ、われわれの意志的な努力には反応しない。本質は、われわれが強制されない限り、思考を容認しない。
 プルーストは、プラトン派であるが、あいまいな仕方においてではない。なぜなら彼は、ヴァントゥイユの短い楽節に関して、本質もしくはイデアを持ち出すからである。プラトンは、出会いと力という徴候によって、思考のイマージュをわれわれに示している。『国家』の或る部分で、プラトンは、世界に存在する事物を二種類に区別する。ひとつは、思考を不活発にするか、活溌であるという外見の口実だけを与えるような事物であり、他のひとつは、思考させる事物、思考を強制する事物である。前者は、認識の対象である。あらゆる能力が、これらの対象に対して行使されるが、それは偶然的な行使であって、《これは指だ》、これはりんごだ、これは家だ、などとわれわれに言われる。これとは反対に、われわれに思考を強制する事物がある。そこにあるのは、認識されうる対象ではなく、力をふるう事物、出会った徴候である。プラトンは、それを、《同時に相反する知覚》だと言う。(プルーストならば、二つの場所、二つの時間に共通の感覚と言うだろう。)感覚的徴候は、われわれに力をふるう。それは、記憶を働かせ、魂を運動させる。しかし、魂の方でも、逆に思考を動かし、感受性の強制と、思考されねばならないただひとつのものである本質を思考させる力とを、思考に伝える。それによって、さまざまな能力は、超越的な行使の中に入りこみ、そこで、それぞれに固有の限界にぶつかり、行き着く。感受性は徴候を了解し、魂と記憶は徴候を解釈し、思考は、本質の思考を強制される。ソクラテスは、当然、次のように言うことができる。──私は、友人である以上に愛であり、恋人である。私は哲学である以上に芸術である。私は、積極的意志であるよりも、しびれなまずであり、強制であり、力である、と。『饗宴』、『パイドロス』、『パイドン』は、三つの偉大な徴候の研究である。
 しかし、ソクラテスのダイモン・イロニーは、出会いを越えることにおいて成立する。ソクラテスにあっては、知性がまだ出会いに先立っている。知性は、出会いを喚起し、刺激し、組織する。プルーストのユーモアは、これとは異なった性質のものである。ギリシャ的イロニーに対する、ユダヤ的ユーモアである。徴候は、出会いの時に開花し、力が加わったときに開花する能力を与えられねばならない。知性は常にあとからくる。それは、あとからくるときにはよいものであり、そのときだけによいものである。プラトン主義とのこのような差異が、どれほど多くのほかの差異を伴なっているかについては、すでに述べた通りである。ロゴスはなく、象形文字だけが存在する。思考するとは、解釈することであり、したがって、翻訳することである。本質とは、同時に、翻訳されるべき事物であり、また翻訳そのものである。つまり、徴候であり、意味である。本質は、徴候の中に入りこんで、われわれに思考を強制し、必然的に思考されるために、意味の中に入りこむ。至るところに象形文字があり、その二重の象徴は、出会いの偶然性と、思考の必然性、《思いがけないものと、不可避なもの》である。」
(ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R