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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<みじめさからの逃避

「どちらにしろこの「世界」では、どこにいっても友情にめぐまれ歓待されるなどということは、ありえない。ある者の友は、誰かの敵なのだ。
 だから、どちらにしろ世界の半分では、日本人は石を投げられることになる。
 しかし、日本人のみじめさは、けして外国で石を投げられることのみじめさではない。
 批判や非難をうけ、ときに軽蔑や攻撃を受けても、生きていくうえでのいきがかりだから仕方がないと、耐えることのできるような確信と誇りが欠けているから、みじめなのである。
 あるいは外からの非難に対して、その不当さに反駁できるような確信と、立場を相手に理解させる主張のないことが、みじめなのである。
 ただ、これは非常に文芸的な発想かもしれないが、私はこうした「みじめ」さを日本人が感じているのは、けして悪くないことだと思う。……なぜなら、「みじめ」さを癒すような確信や主張など、簡単にもてるわけがないからだ。
 この「みじめ」さを日本人が深く味わって、そこから出発することができたならば、たしかに政治的、外交的痛手は深かったものの、日本人にとって湾岸戦争は、無駄な体験にはならないのではないか。
 しかしジャーナリズムや論壇では、「みじめ」さに対面した日本人にたいして、安直な答えを提供するような議論が蔓延し、あらそって日本の「戦略」や「原理」と称する価値が提案されている。……
 ジャーナリズムの営業から考えれば、日本人が不安にかられている時に、わかりやすい答えを提出することが必要なのかもしれない。具体的な政策自体を論議する立場からすれば、そんなのんびりしたことは言っていられないという事情もあるだろう。
 だからこそジャーナリズムや論壇といった速度の早い環境から一歩ひいた文芸は、「みじめ」さに身をひたした、息の長い思考をするべきだろう。「独立と己」を手にいれながら、心の平穏を失ってしまった近代日本人の姿を語った夏目漱石以来、「みじめ」さを受け入れて、「みじめ」さに耐えることは、近代文芸の宿命でもあったからである。
 …………
 ところが現在文学者たちが実際やっていることや、湾岸戦争でおこなった行動などを見ていると、論壇どころではない性急さが目につく。というよりも、彼らは態度決定に先だって深く考えた様子もなければ、「みじめ」さをよく味わった気配もない。
 …………
 なぜ、そんなに早く答えを出さなければならないのか、そこが私には一番わからない。少なくとも、文学者にはうじうじと悩む権利があるはずだ。というよりも、この「みじめ」さに対して誠実でないならば、どんな文学がありうるのか。」
(福田和也『「覚悟」のない出発』)
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