「理想の女というものは、男の作ったものだから、その男に似ているのであるから、けっきょく、非常に男的なものである。だから女はいつもするりするりと抜けて、どこかで、その本性の一部をあらわす。そこでこういう詩がある。
あたしはどんな流儀のことも身につけ、
だれの趣味にもあう魂をもってるの、
あたしのいろんな顔の花をおつみなさ、
あたしの口をお吸いなさい、でも声をきかないように、
そしてそれ以上をもとめてはなりませぬ、
誰ひとり、あたしですら、はっきり見透しはしたことがないのだから。
それにもかかわらず、男がどじをふみながら、本心ひそかに喜ぶのは、この女の「見透しはしたことがない」女自身にも分からぬ秘密の部分が、泉がほとばしり出るように自由に翼をひろげ、馴らされた女からとび立つときである。それは、いってみれば、はじめて灸をすえられたみたいなもので、痛いつらいと思いながら、なにか爽快なものでないとはいえないのに似ている。男が女をふったのとは違って、かわいがられていた筈の女が男を袖にしたり、うつり気を示すのには、何か健康な味わいさえある。……
私はいつかある友人の家で話をしていた。そのとき、その近所へ撮影をしにきていた、もと俳優だった男のことが話題になった。
「あの人はきみなんか魅力を感じるのだろう」
すると彼の妻は微笑しながら、
「そうね、あの人の腰はとてもいいわ。がっちりしていて。あの腰には頼もしさを感じるわね、とてもいいわ」
彼女は普通の奥さんで特別の人ではない。また彼女がいった頼もしいという言葉は、必ずしもセクシュアルな意味あいだけのものではない。
「そうか」
彼は顔を赤らめながら、どぎまぎしていたが、しかしそこには何か爽やかな空気が流れたように感じた。
…………
私が前にあげた、「Xへの手紙」〔小林秀雄〕の中の文章のような、男のとまどいは、男に「女」というものを感じさせ、とまどいをあたえ、「女って子供だな」と思わせ、男を離れさせるか、また、おなじ方法で、「馴れ」をくりかえさせるのがおちである。なぜなら、ここでは男が女に馴れしたしんでいるように、女もまた自分の「女」に馴れしたしんでいるからだ。女が自分の中の馴れしたしんできた女から自由になるときに、女は男の心を底の底からゆりうごかす。残念ながら男を精神的に健康にするのは、女のもつ、この新鮮さをおいてはないようである。」
(小島信夫『実感・女性論』)