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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<インタープレイ2

「彼〔フロイト〕はここで、分析医の無意識と患者の無意識との直接接続という奇妙な考えを提出している。患者の言葉は、分析医の意識を介さず、その無意識へと直接届かねばならない。さもないと、分析医の意識は「自分の無意識によって認識されたもの」を歪曲してしまうからだ。分析医も患者も意識的には気づかないままに、分析医の無意識は患者の無意識を理解することができる。この考えを、荒唐無稽と退けてはならない。一方で確かにそれは、精神分析が知的探究から離れ、神秘体験の場へ接近する危険性を開いている(例えば「集合的無意識」の発想)。だが他方で、その言葉はフロイトの着想の革命性を伝えるものでもあるのだ。
 何が革命的なのか。フロイトにしたがえば、意識が聴き/理解し損なうノイズを拾う能力が、無意識には本来備わっている。これは、人間にはたがいに異なる演算速度をもつ情報処理装置が複数組み込まれていることを意味する。……意識的なコミュニケーションと並行的に、無意識的な情報処理がバックグラウンドで高速に行われている。欲動的細部を分析するためには、その高速で分子的な情報処理の様態を、低速でモル的な意識が理解できるよう変換しなければならない。つまりスローモーションにしなければならない。精神分析とは、欲動的情報の処理速度/密度を変換する技法にほかならなかったのである。
 では、どうやってそれを可能にするのだろうか。同じテクストで、フロイトは「無意識的記憶」について語っている。無意識的記憶は、意識が捉えられなかった分子的演算、例えば名「Signorelli」のなかに読み取られた諸シニフィアンのセリー〔signor, Botticelli, 等々〕が登録され保存される場だ。自由連想法とは、その登録の再生にほかならない。ただし速度は変化している。臨床の場面では無意識的な高速演算がゆっくりと、遅延して、かつ断片的に顕在化してくるだけだから。とすれば、実は、自由連想法こそが映画のスローモーションに対応する技法だと考えてよい。しかもそこでは、患者の無意識的記憶と分析医のそれが共同してスローモーションを可能にしている。患者が変速し出力する欲望的情報を、分析医はまず自分の無意識に登録し、その後もう一度速度の転換を行うことになるからだ。フロイトが記すように、分析医は「後になって」初めて、自分の無意識的記憶から患者の無意識について知らされる。」
(東浩紀「精神分析の世紀、情報機械の世紀──ベンヤミンから「無意識機械」へ」)
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