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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<内臓ではない内

鷲田 ……私たちの内外の感覚というのは、本当に人間のボディの表面にある皮膚を境界面とする感覚としてあるのかなあと思うのです。
中井 どうなんでしょうね。確かゲーテは皮膚が一番精妙であって、体の中へ入るほど大雑把になるというようなことを言っていますね。
 …………
鷲田 内外の感覚って本当にどんなふうに自分の中で生まれてくるんだろうと考えた時に、二つありまして。一つは皮膚に包まれたここにある身体というふうに、何か世界が縮んでくることが自分の身体の発見だということ。つまり私たちが身体といっているものも最初は外界へただただ境目もなく繋がっていて、連動していたのが、一種の同一体としての身体に、世界がまるで縮まるようにして、私たちは自分の身体を対象化して見るようになると思うんですね。その時、私たちは明らかに皮膚の中側と外側、皮膚を境界面とする内側が自分の身体で、外が外部だって考えます。けれども、内外にはもう一つあって、私たちには開くもの閉じるものといった時の内外というのがあります。……たとえば手のひらの場合、手のなかというのは、皮膚のなかじゃなしに、こうした場合、掌が中で甲が外、あるいは身を丸めてこうした時に腹側に自分の内部があって、背筋側が外だというもう一つの内と外があるように思うんですね。人が他人との接触で一番怖がるのは、自分の内を相手の内とをじかにひっつけること。そういう構えの外側はいい、しかも毛並みにそって触られるといいんです。けれど、これは介護士の方に教えてもらったんですが、必ず外からそっと触らないでぎゅっと触ること、それから毛並みにそってなでること、背中でも。それを相手を落ち着かせる方法として教えてもらったんです。で、こうした時に私たちが一番恐れるのは、異物には外を向けるんだけど、無理矢理体を開かれて、外と接触するのはすごく怖い。ということは逆にいえば、一番親密な関係、「恋する身体」であるとか「親子の身体」というのは、ある意味で内と内とをギューと安心して接触できる関係だと思うんですね。
中井 威張っている人なんかは、今度は怖くないぞということでこうやってますなあ。
鷲田 そうです、そうです。それは内をさらしたって怖くないという。そう考えてくると、私たちにはもう一つの内外があって、世界に対しての構えの中での内外、あるいは異物との関係による内外というのがあって、果たして内外の経験としてどっちが基礎に、ベースになっているのか。」
(鷲田清一×中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談」)
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