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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<力こそパワー、道徳こそモラル

「存在するのは「生への意志」ではなく「力への意志」である〔『ツァラトゥストラ』「自己克服について」〕。そしてこの「力への意志」によって駆動する「生」は、様々な価値を創造してはその価値評価に服従して生きるように「生あるものに」命ずる。しかしその価値は「生それ自体よりも高く評価されている」がゆえに、「生」は「力への意志」が創り出した価値に即して自らの在り方を彫琢せざるを得なくなるのである。それゆえ「生きとし生けるものは一個の服従である」。このことはまた、「力への意志」の本質が「支配」への意志であることを意味している。
 したがって、凡そ価値というものは生の自己保存を直接の目的として創造されたのではない。無論このことは、「力への意志」が生存に寄与することがない、ということを意味しない。誰もがそれに服従して生きることに何らの魅力も感得することのできないような価値は、既に価値ではないだろう。ある価値は、それに服従して生きることが生を生きるに値するものにしてくれる、と評価した者たちによって創造され、信奉されてきたのである。かくて、ある価値に則して生きることは「善」と見做されることになる。それは裏を返せば、当該の価値に適っていない生き方を「悪」として、劣位に評価することに他ならない(例えば、足を傷めた人が歩くようになった様を見て「よかったね」と声を掛ける場面を考えてみればよい)。生を価値に従って評価するということ、それは生きることそれ自体の肯定ではなく、生きることのある側面を肯定し、別の側面を否定することを含意している。だが、その価値に則した生き方をできるか否か、それは飽くまで「偶然の骰子の目」に左右されることだろう。「強者」と「弱者」が生じざるを得ないのはそのためである。そして「力への意志」があらゆる生に具わる以上、「弱者」もまたその軛から逃れられはしない。……「弱者」もまた「支配の快」を意志しているのだ。但し、支配に伴う「快」が重要なのではない。ニーチェ曰く、生の意志は「快を求めているのでもなければ、不快を避けようとしているのでもない」、飽くまで「力の増大」を求めているのである。或いは『アンチクリスト』二節に言われる如く「力の感情」「力が増大しているという感覚」を求めているのである。ニーチェが謂わんとしているのは、歴史を通じて「善」とされてきたものの正体は、本来「力の感情」を獲得するために創造された価値なのだ、ということに他ならない。したがって『アンチクリスト』の当該箇所は「力への意志が新しい倫理の原理ないし中核的価値を提供する」ことを示す規範的主張としてではなく、道徳と呼ばれてきたものの本性を記述している箇所として読まれねばならない。「弱者と出来損いは亡びねばならない」と命じているのはニーチェではなく、道徳なのである。」
(東谷優希「「聖なる残忍さ」の問い──『ツァラトゥストラ』の視座から」)
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