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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<愛することを学ぶ10

「社会の場に置かれた愛情は、意識的な抵抗という形を取ってこそよりよい社会の寓意となり得るのであって、ただ平和な飛び地というだけではその用をなさない。ところが意識的な抵抗は、ほかでもない、どこまでもそれを自然なものと考えたがるブルジョアが愛情に禁じている我意の要素を必要としている。ひとを愛するというのは、経済によって社会生活のあらゆる場面に加えられる媒介の圧力のために感情の直接性を損なわれぬ能力と言っていいので、そうして節操を貫くことで感情の直接性もそれ自体において媒介され、圧力に抵抗するしぶとさを身につけていく。早く言えば、愛に固執する力のある者だけが本当に愛しているということだ。社会上の利益は形を変えて生活の場に隈なく滲透し、性衝動にいたるまで一定の鋳型にはめ込む力を持っている。そして検定済みの対象を無数のニュアンスで彩りながら、あるときは甲のタイプ、またあるときは乙のタイプを魅力的だと思い込ませる。ところが、いったんこれと思い定めた愛情は──あとからきまって社会の重力に利用される種々の陰謀の類はさて措き──社会の重力自体がそれを望まないような場合でも、我を張り通すことでそうした働きかけに抵抗する。時には強迫観念じみることもあるかもしれないが、長持ちすることでたんなる感情の域をこえるか否かによって感情の真価は定まるのだ。一方、無反省な自発性を装い、誠実とやらを鼻にかけ、心の声と称するものの命ずるところに唯々諾々と従い、その声が聞こえなくなったと思うとたちまち相手から遠ざかるといったような愛情の有り様は、自力独行の極致のように見えて、その実、社会の操る道具でしかない。利害のルーレットでそのつど文字盤に出る数字を受動的に記録しているだけで、本人にはその自覚すらない。この種の愛情は、恋人を裏切ることで自らを裏切っていると言うべきである。社会の命ずる貞節の教えは隷属のための手段でしかないのだが、自由の立場は貞節によらなければ社会の命令に対する不服従を貫くことができないのである。」
(アドルノ『ミニマ・モラリア 第三部』)
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