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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<否定美学

「〔カントの『判断力批判』の理路では〕花弁は、それが「純粋な」趣味判断の対象となるためには、少なくとも今それを見る植物学者にとって、非-意味的であるのでなくてはならない。なぜなら趣味判断は、それが自由美を形式だけに関して判定するときにのみ「純粋」と呼ばれ得るのであり、もしある趣味判断が一定の目的を有した対象に関しても「純粋」であり得るとすれば、それは判断者がそのような目的を全く知らないか、もしくはそのような目的を判断のうちで度外視している場合しかありえないからである。それゆえ彼/彼女は、花弁を美として受け取るためには、それが本来自己の増殖を「目的」とした生殖器官であるという知を欠如しているのでなければならない。
 単に目的=概念についての知を欠いていればよいというのではない。あるギリシア風の線描的模様或は壁紙に施された簇葉飾りは、それが単に「無意味」である──なんの概念的認識にも寄与しない──「から」美しいのではない。美しくあるためにはそれは無意味であり、かつ合目的的な在り方をしていて、しかもそれが本来何であるかという「目的」の表象を欠いているというのでなくてはならない。……
 カントは言う。「チューリップは美しいと言われる」、なぜなら、「いかなる目的にも関係せしめられないような合目的性が、この花の知覚において見出されるからである」。言うまでもなく我々は、花を目的へと関係づけること「も」できる。花は生殖のための器官なのである。しかしそのような目的が我々に知られておらず、かついかなる目的でもないような何かによって「方向づけられた」何かとしてそれが我々に知覚される限りにおいて、チューリップは美しいのである。あるものはそれが目的によって方向づけられている限りにおいて、同時に、その目的の表象を決定的に欠如している限りにおいて美しい。「目的性、つまり方向づけられた動きがあるのでなければならない。さもないと美は存在しないであろう。しかし、方向づけるもの(すなわち起源をなし、方向づける目的)は欠如しているのでなければならない」(デリダ)。ここには二つの運動がある。美しいものは、超感性的な普遍的規則である目的への遡行へと私たちの判断力を誘惑する。しかし同時に、判断におけるその普遍への反省的遡行を決定的に拒絶している限りにおいてそのものは美しくあり得るのである。もしその遡行が可能であるなら、すなわち私たちが反省のうちにその物の客観的目的を認識するなら、そこにはもはや対象の認識があるのみであって美はないだろう。ある花は、例えばそれが精巧につくられた造花であることが知られてしまうなら──本物そっくりに見せるという一つの意図の下に目的づけられてしまうなら──もはや美しいとは言われ得ないのである。……
 …………
 しかし、私たちはここで重ねて想起しなくてはならないが、美として判定される物の合目的性は、その物の客観的性質であるのではない。それはあくまで判断の主観に対するある表象の現われかたにすぎない。ゆえに厳密には、「今このチューリップが美しいものとして私に現れている」と言うのが正確なのであって、「このチューリップは美しい」と言うことは原理的にはできない。ある趣味判断は「適意の述語を概念に結び付けるのではなくて、与えられた個々の経験的表象に結び付ける」のでなければならないからである。ある絵がある時、美しく現れ出たのだとしても、その絵「が」美しいのではない。それは「今、ここ」において、ある人に美しく現れ出ているというにすぎない。前章で見たように、反省的判断力とは一般に個物を類としての普遍に同定しようとする能力である。しかし美しいものは、そのような類=普遍にみずからを同定することを許さない限りにおいて真の自由美として現出し得るのである。
 ここに自由美をめぐる大きな問題がある。……純粋な美はつねに一回的に、それと遭遇した判断者の主観において美しいのであって、その美は対象において固定され得るのではない。ある人が美術館で、あるセザンヌの絵の前にたって「この絵は美しい」と思うのだとしても、それはその場限りで「美しい」のであって、その人がもうその絵を目の前に見ていないなら、もはや「そのセザンヌの絵は美しい」などと言うことは原理的にはできないのである。
 つまり私たちは芸術を純粋な美であるとするなら、「…は傑作である」とか、「…の絵は美しい」などと言うことはその絵の前において、その絵を見ているときにしかできない。「目的」概念によって固定されていない「美しいもの」は、それが我々の主観に対して合目的的に現れ出ている限りにおいてしか、「美しいもの」としての合目的性を有し得ないからである。」
(平倉圭「「目的なき合目的性」とは何か」)
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