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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<推定無罪の非政治性2

「イスラエル軍は、白燐弾の使用についてどのような態度を取ってきたか。彼らはCNNに対し使用を否定し、また1月12日付の毎日新聞の報道では「白リン弾は使用していない。使用した兵器の種類については答えられない」「我々が使っている物はすべて国際法にのっとっている」とコメントした。それが、21日付の報道で、軍の内部調査によって200発を使用したことをはじめて認めたことが明らかとなった。これはイスラエルのハアレツ紙によるもので、この報道自体が計算されたものと考えるべきだ。一方的に戦闘を終了し、また言い逃れができない状況になってはじめて認めたわけだが、あらかじめ「すべて国際法にのっとっている」と言った上でのことだから、当初それを否定したのは彼ら自身が“グレー”であることをよく分かっていたからだ。
 白燐弾より榴弾の方が効率的に殺傷できる? 違う。そんなことはイスラエル軍はよおく分かっている。彼らはレバノンで懲りている。なにせアメリカ新大統領を抱き込んだ戦略である、これは高度な国際的情報戦なのだ。イスラエル軍がyoutubeに空爆の様子をアップしたのはなぜか? それは標的である「平和破壊者」をピンポイントで精確に爆撃することで人権に配慮した「執行・批准・処罰・平和化・契約の保護・国際警察・平和確保の措置」を取っているとプロパガンダするためである。さて、そこからもれたエリア、そこからもれた敵をどうするか? 建物を破壊せず、そこにいる人間と物資を傷つけ、無力化するにはどうするか? ガザにおける白燐弾の問題とは、そのために白燐弾が使用された“可能性がある”ということだ。
 建物を破壊せずにその場にいる人間に火傷を負わせ無力化すること(また周囲にとっても怪我人として「足手まとい」にすること)、それが白燐弾には可能であり、また、実際にそのように使用されているのではないかということだ。この場合、「白燐弾は煙幕」であるという肩書きこそが「煙幕」というわけだ。
 さて、そのような攻撃が必要となるのはハマスが市民にまぎれこんでいるからだという反論がありうる。これはヒズボラの戦法を踏襲したものでそれ自体問題がある行為だが、そのような状況を作り出したそもそもの前提はガザの封鎖だということを忘れてはならない。シュミットの言葉を借りれば「非戦闘員に対する食料輸送の抑止や飢餓封鎖のような強制手段」が用いられていたのだ(そしてそれは停戦後のいまも続行中である)。2006年の選挙でファタハが負けたのはなぜなのか。投票率70%の選挙でハマスが44%を獲得したのはなぜなのか。ハマス的なるものを生み出したのは封鎖であり包囲であり、そのハマスは戦闘機も戦車もなく包囲された内部で戦うしかないことになり、結果市民とまぎれることになる。市民にまぎれるハマスと、そのような状況を強いているイスラエル。そのあいだに打ち込まれているものこそが白燐弾なのだ。だから、白燐弾を問うこととは、本当は、この関係性、この状況そのものを問うことなのだ。さて、この場合どちらの側の行為から疑い問うていくべきか? 僕は、包囲し、空爆し、アメリカの支持を取り付けている側からだと考える。
 白燐弾は「合法」であり「安全」であると喧伝するひとびとは、戦争や人間が殺し殺されるという事態を、静止した「もの」ととらえており「できごと」としてとらえていない。白燐弾という「もの」をのみあげつらっても無意味だ。それが使用される時間と場所と目的、発射する側と発射される側の関係から切り離すことは無意味だ(そしてその無意味こそが使用する側に利する)。僕はボスニアを、コソボを、アフガンを、もちろんイスラエルを、見、聞き、歩いたが、「もの」で語れることなど何一つなかった。机上や年表上では静止していても、境界線を越えた瞬間に「もの」は変貌する。そしておそろしいのは、静止していると信じている者自身の足下が知らず知らず動いているということだ。「合法」である、「安全」であるという視点は、実はすでに決定的にある政治的立場に囚われている。「もの」についてどれだけ知識があろうとも、その「もの」が誰が誰になんのためにどのように向けられているのかという「できごと」について考える知性がともなわなければ、その知識はむしろ問いを停止するものとして機能してしまうのだ。」
(nos/unspiritualized「From A Distant Shore」)
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