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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<私のいない私小説

「だが、あるいは江藤〔淳〕もまた、今検討したほど拙劣な仕方で考えたのではなかろう。おそらく彼がどうしても「私の言葉」を必要とした本当の理由は、「概念」が(江藤のいうのとは逆に)たとえ「生きている」としても、すなわち現実の諸関係を記述するためにどれほど有効に機能していようと、その有用性には決して還元できない本質的な異和とねじれとが彼の内部に存在するからなのだろう──決して「十数年前」にはありえなかった仕方で、いままさに。それは、全ての責を「概念」一般に苛立たしげに帰しているとしても、実は直接的にはそれとは無関係な危機、「私」をつかむある切迫した危機の率直で鋭敏な表現であり、そしてこの率直さは批評が批評でありうるための絶対的な条件でありながら、決して誰もがしていることではない。だが、だとしても、というより、だからこそ江藤の思考には言葉について致命的な不徹底さがなお付きまとっている、と僕は思う。すなわち、を問うことは、私的な事柄について語ること、たとえば「母と自分の関係をたしかめる」(江藤同上)ことを直ちに意味しはしない。江藤が言うように、「『私』とはなにか」という問い、そして「『言葉』がそれとどうかかわるか」という問いはいつか確実に僕達をとらえる。だが同時に、人には「私の言葉」を消去することによってしかを語り得ないことがあるのだ。たとえばマルクスにとって、「資本論」がの言葉であるのは、それが資本の運動の徹底的な記述であるという逆説による。理論主義は、自己を自己として徹底する限りで(ただち非-江藤的な意味での)を奪回することが可能になる。それぞれの個人は、を「私」と書くことによってではなく、自分に必要な事柄を必要な形式で語ることによってはじめての言葉に到達する他ない。このレベルにおいては、自らの抱く異和がいままさに切実であればそれだけ、彼は一見すると「十数年前」とも「いま」とも無縁な極度の抽象的な形式においていまを示すほかない。……
 逆に言えば「人生」について直接的に語りたがる者こそ、殆ど常に人生から無縁ではないのか。自らのいまを「いま」と書くことで、繰り返し安価に切り売りしてきたのは江藤淳の側ではないのか。一体、「ボヴァリー夫人は『私』だ」という逆説の苦痛、あるいは「真理は詭弁的なものではない。しかし真理を語るには詭弁的に語るのがもっとも適するという事もあるのだ」(「マルクスの悟達」)という認識の苦痛が、「一族再会」のどこに存在するのか。私的な事柄について江藤が撒き散らしてきた無数の「私の言葉」が、生きようとする意志がまだ生きるのを始める前に断ち切られてしまう真の苦痛の経験としてあったのか、それともそれらはすべて誰もがそこから自分の生を研磨してゆかねばならない程度の不幸にすぎなくて、にもかかわらず何度も何度も同じタイプの話を蒸し返し人をうんざりさせる「自己絶対化」を江藤が繰り返してきたにすぎないのか、このわかりきった問いの正解(当然後者)を事こまかに引証するほど僕は暇ではない。だが、僕の考えでは、小林秀雄が「一族再会」を一喝(江藤自身がどこかで言っている)したとき、彼の江藤への侮蔑は疑いなく本質的なものだった。なぜか。それは、小林が、屈折的-間接的にしか伝達しえないをマルクスやドストエフスキーに見いだし、自らもそれに苦しみ、そしてそれが言葉という光学装置からくる決して避けることのできない強制必然)であることを他の誰よりも明晰に理解していたからだ。
 ……だから最後に僕は僕にとって必要な現実を書く。「何をなすべきか」という当為ではなく「いかに強いられているか」という必然として、……何よりも僕自身が生きることをこれから再び始めるために、そのことを書きとめる。──すなわち、書くことは書くことであり、生きることは生きることである。……人はある水準における何かを別の水準の何かで取り返すことは永久にできない。生きることへの救済や慰めを物欲しげに言葉に求めるのは間違っている。言葉が自分にとっての救済だという者は、人は殆ど常に救済となりうる言葉がなくとも生きてゆかねばならないこと、さらには救済があり得るような不幸などたかが知れていることを知らねばならない。」
(鎌田哲哉「準備のためのノート 江藤淳『小林秀雄』における読解の基礎原理の破壊」)
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