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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<普通文学2

「──現代の若者は、コミュニケーションを軸として、おおまかに「ひきこもり系」と「じぶん探し系」という、二つの部族として棲み分ける。「ひきこもり系」とは、コミュニケーションが不得手で対人関係が少なく、しかし「自己イメージの不確かさ」についての葛藤が少ないタイプの若者たちだ。彼らは自己の内的過程に没頭する傾向が強く、そのぶん創造性も高い。いわゆる「おたく」もここに含まれる。いまどき創作活動に関心を持つような若者は、そのほとんどが「ひきこもり系」だ。
 一方、「じぶん探し系」の若者は、過剰なまでにコミュにカティブで、友人も一〇〇人のオーダーで存在する。異性関係においても早熟で、常に流動性の高い対人関係を生きている。しかしそのぶん、孤独に対する耐性が低く、自己イメージが安定しない。コンビニやファーストフードの前にたむろする、金髪にピアスの若者たちは、この部族に所属する。
 もうおわかりであろう。この分類で言うなら、綿矢〔りさ〕は「ひきこもり系」に近い。ついでに言えば、ほとんどの作家はこちらに属する。金原〔ひとみ〕が画期的なのは、これほどまでに純粋な「じぶん探し系」の作家を、私はこれまでひとりも見たことがないからだ。
 インタビューによれば、金原は高校時代から彼氏と同棲をはじめている。これは性的に早熟というよりは、じぶん探し系の若者にとっては「普通」のライフスタイルだ。そして、彼らを理解するキーワードのひとつが「普通」である。「フツーにびっくりした」「祖母が死んで、フツーに悲しかった」、そういう「普通」。あえて細かな形容や説明を避けることで、仲間と同じ感情の共同体に所属することを確認するための便利な符丁。そして金原もまた「適当であること」=「普通」を指向するのだ。「非凡さ」、あるいは蓮實重彦ふうに「愚鈍さ」に至上の価値を見るすべての文学志望者は、ここで膝の裏側をカクンと突かれたようなショックに崩れ落ちるであろう。崩れ落ちるべきだ。
 普通と匿名化を志向する金原がさらなる批評意識を獲得したとき、私たちはまったく新しい「ファンキー文学」の出現を待望しうるだろう(ところでいうまでもなく「ファンキー」とは、ファンシーとヤンキーの合成語である)。」
(斎藤環「あとがきに代えて──私小説人格からヤンキー文学へ」)
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