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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<生きる屍の生

「美とは一つの経験であって、それ以外の何物でもない。それは固定した見本でもなければ、顔の造作の配合でもない。それは〈感知されたる〉何物かであり、一つの輝き、あるいは伝わって来る素晴らしいという感じである。困ったことにはわれわれの美感というものは、ひどく傷だらけになり、鈍っているので、一番いいものを皆見のがしてしまうのである。
 ……最も引き立たない顔つきの人間でも美しく見えることもあり、また美しく〈在る〉ことさえできるのだ。醜い顔を美しい顔に変化させるには、セックスの火が微妙に上昇して来さえすればいいのである。それが本当のセックス・アピール、美意識の伝達なのである。
 そしてこれとは逆に、本当に美麗な女ほど厭らしい存在はない。つまり、美というのは経験の問題であって、完璧な形態ではないのであるから、本当に美麗な女は最も正確に醜い、ということになるのだ。セックスの輝きの失せた女が、厭らしい冷たい動きかたをする時は、その外観が美麗であればあるほど、それ以上醜悪なものはないのである。
 セックスとは何であるか、われわれは知らない。しかしそれは何か火のようなものであるにちがいない。なぜならそれは常に暖かい感じ、閃く感じを伝えるからである。そしてその閃きが純粋な輝きに達した時にわれわれは美を感ずるのである。
 しかり、暖かさの伝達、セックスの閃きの伝達が性的魅惑である。われわれの内部にはセックスの火が燃えたり鎮ったりしているのだ。九十歳の老人になってもそれはまだ存在するのである。もしそれが死滅すると、あのいわゆる厭らしき生ける屍の一人になるのである。不幸なことにはそういう人間の数はますます多くなりつつある。
 ……われわれが十分に活きている間は、われわれの内部にセックスの火が燻ったり燃え立ったりしているのである。青春時にそれは煌めきつつ輝いている。年とるとともにそれはだんだん穏やかに燃えるようにはなるが、なおそこに生きているのである。われわれはそれにある抑制を加える。しかしそれも一部的な抑制である。社会がセックスを憎む理由はそこにあるのである。
 美と怒りの源泉であるこのセックスの火は、生きている限りはわれわれの理解の届かないほど執拗に、われわれの内部で燃えているのである。それは本当の火と同様、それが燃え立っているとき不注意に触ると、指を火傷させるものだ。それゆえにただ〈安全〉に生きようとする社会人はこのセックスの火を嫌うのである。
 幸いなことには単なる社会人として成功する人間はそう多いものではない。そして火の特質の一つは他の火に呼びかけるということである。こちらの火があちらの火をかき起こすのである。それは時には単に燻っているのを赤い火にするだけのこともある。またぱちぱちと燃え出させることもある。あるいは焔を燃え上がらせることもある。そうなると焔はたがいに寄り合い、本当の燃焼を始める。
 セックスの火がよく燃える時はきっとどこかにそれへの応答を発生せしめる。それは暖かさと楽天観を呼び醒ますだけのこともある。そういう時に人は言う。
「僕はあの少女が好きだ。あれは本当にいい娘だ」と。
 時にはそれに火を点じたために、世界じゅうがより明るくなり、人生が一層楽しくなることがある。そういう時に人は言う。
「あの女は魅力がある。僕は彼女が好きだ」と。
 または彼女の中に燃える焔は、あたりを明るくする前に彼女の顔をまず明るくするかも知れない。その時に人は言う。
「あれは可愛らしい女だ。僕は美しいと思う」と。
 本当の意味での愛らしさの情を湧き立たせる女性は稀である。」
(D.H.ロレンス「セックス対愛らしさ」)
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