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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<賭博者=恋愛者の幻想(反復とあいまいさ)

「……もしもわれわれが次のような主体に出会うとしたら(精神分析ではよくあることだが)どうだろう。それは、「絞首台」のようなものに脅かされているとしても、禁止を犯すことになるとしても、情熱の一夜を存分に楽しむことをやめられない主体である。色情を満足させることによって、もっとも基本的な「利己的」利益すら捨てざるをえなくなるならば、そして、この性的満足があきらかに「快原則を超えて」いるならば、見かけとはまったく逆に、われわれが目にしているのは倫理的行為であり、この主体の色情は厳密な意味で倫理的であるといえる。これがラカンの主張の要点である。この点について、アンレカ・ジュパンチッチはより簡潔にこう述べている。「カントが主張するように、もしもわれわれの感性的動因による利益すべてを捨てて死を受け入れるように促すものが道徳法則にほかならないとするならば、命を失うことになるとわかっていても淑女と一夜をともにする男は道徳法則を体現しているのである」。
 これが意味するのは、ラカンが享楽(jouissance)と呼ぶもの、つまり過剰な快楽は、道徳法則と同じく、快原則を超えているだけではなく私利私欲をも超えているということだ。快原則を越える次元にフロイトがつけた名前は死の欲動であれ、したがって、死の欲動もまたカントのいう意味で感性的動因によらないものである。死の欲動は快楽をもたらすが、それは苦痛のなかの快楽、カントのいう崇高であるといってもよい。どういう場合にそういえるのか? それは──カントとは対照的に──欲望する能力それ自体が「感性的動因による」ものではないと断言できる場合にかぎる。ようするに、すでに見たように、「純粋欲望批判」の必要性をラカンは主張しているのだ。カントにとって、人間の欲望する能力は徹頭徹尾「感性的動因による」のだが、これとは対照的に、ラカンは欲望する純粋能力が存在すると主張している。……
 以上の理由から、カトリック教会は(生殖と区別される)性行為を粗野な獣性として貶める傾向にある。というのも、カトリック教会は次のことをきわめて正確に直観しているからだ。セックスは、教会にとって手強いライバルであり、厳密な意味で身体を超えた(形而上学的)経験のなかでももっとも基本的な経験である、ということを。色情は日常生活の流れを暴力的に断つ。日常とは別の次元が生活に介入してきて、日々の利益や勤めのことを忘れさせてしまう。カトリック教会は次のような歴然とした事実を無視している。それは、生殖のために性行為を行うのはまさに動物であり、これに対して色情の支配下にある人間は、本来は生殖の手段として行う何か(性行為)をそこから分離し、この何かを目標それ自体に、つまり霊化された享楽という強烈な経験を求める行為にしてしまうという事実である。精神分析が性に注意を向けるのはこうした理由からであって、性がわれわれの存在に生まれつき(自然に)備わっている実質であり、のちにこの実質が文明の複雑な儀式(この儀式にふさわしい場所は言語かつ/または仕事である)を通じて洗練されるからではない──「自然のままの生」からの離脱は性そのものにおいて生じる。……
 この……せいで、性的享楽は最終的に失敗する運命にあるだけではなく、何らかのやり方でこの失敗そのものから得られる享楽、何度も失敗し、失敗を繰り返すことから得られる享楽にもなる。単純な場面を思い浮かべてみよう。わたしが誰かと握手をするとき、おざなりに手を握ったあとでも手を放さずに、そのまま相手の手をリズミカルに力を入れて握り続けたとしよう。わたしのこうした行為は、迷惑で気まずい効果、エロティックな効果を生み出してしまうだろう。崇高な性的〈物〉(カントの用語でいえば、ヌーメナルな性〈それ自体〉)に直接アクセスすることはできない。それを得ようとして繰り返される試みにとっての不在の焦点としてその輪郭を描くことができるだけであり、あるいはカントが述べたように、崇高な性的〈物〉は、これに到達しようとしてできない失敗の連続によって否定的に喚起されうるだけなのである。こうした理由で、苦痛、失敗、失敗の苦痛は強烈な性的経験の一部なのであり、享楽は、苦痛によって損なわれた快楽の効果としてのみ生じるのである。
 ここで、ラカンによる崇高の定義を思い出すべきだろう。「〔崇高とは〕〈物〉のレベルにまで高められた対象である」、つまり、普通の対象あるいは行為を通じて、根拠の薄弱な短絡によって、不可能な〈リアル-物〉が立ち現れる、という定義である。こくいうわけで、強烈でエロティックな相互行為においては、ひと言の不適切な言葉、一つの粗野な身振りだけで暴力的な脱-崇高化が行われ、エロティックな緊張の高まりは粗野な交合へと下落してしまう。想像してほしい、色情の支配下にある者が、愛する女性の、これからやってくる快楽に打ち震える膣をま間近に見ているとしよう。しかしそのとき何かが起こり、いわば「接続が切れて」しまい色情の支配から解かれると、目の前の肉の器官は汗や尿などの悪臭を発する、まったく卑俗な現実として姿を現す(ペニスについて、これと同様の経験を想像することは簡単だ)。ここでは何が起きているのか? われわれがここで経験しているのは、ラカンのいう「幻想を突き抜けること」──幻想という保護層が崩れてしまい、肉という脱-崇高化されたリアルなものに直面することなのだろうか。ラカンによれば、先に説明した場面で起きているのはこれとは正反対のことだ。その女性の膣は、「〈物〉の荘厳さにまで高められた対象」であることをやめ、普通の現実〔リアリティ〕の一部となったのである。まさにこの意味において、崇高化(昇華)は性別化の反対ではなくその等価物なのだ。〈リアル〉は得体の知れない非物質的なXであり、このXの支配下にある者にとって膣は魅力的に見えるのである。」
(ジジェク『性と頓挫する絶対』)
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