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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<普通文学4

「柳田〔国男〕は「外に目を向けよ」とは言っていない。むしろ、宣長が漢意という外来思想を退けたように、「眼前にぶら下がっている」「歴史の究極の目的」を、「自身の自意識」と「自己内部の省察」によって発見せよと言っている。言い方だけ見れば「私」の記述を追求した私小説の方法論と変わりない。……つまり柳田は自己への眼差しを拒絶したわけではない。この点をまず確認しておく。
 だが柳田と〔田山〕花袋の自然主義には微妙だが決定的な違いがある。それは、花袋が、告白する自己自身に「事実」としてのリアリティを感じていたのと対照的に、柳田が、そのような自己を突き放すものこそを「事実」と見ていたことだ。単に眼についた事柄を採集したのではない。柳田の記述が「私」を批判し得ているとすれば、それは、カメラを外に向けたからではなく──そのような視線の転回も結局は自己の保身でしかない──逆に、柳田民俗学の方法が、「自己内部の省察」の徹底化としてあること、つまり「事実」の記述によって積極的に「私」を揚棄していくものだからだ。どういうことか。たとえば、柳田唯一の自伝『故郷七十年』は、それが本来的に「私」を記述する性質の文書であるからこそ、柳田の「私」に対する眼差しがどのようなものであるかを明確に示している。

私は母の腰巾着、九州でいうシリフウゾ、越中の海岸地帯ではバイノクソなどと、皆にからかわれる児童であった。(……)あの頃の世相の変化には却って現代よりも複雑で、又烈しいものが多かった。以前は市や祭礼の日の為に具わって居た村の道路が、一旦国道に指定せられると、無理しても路幅をひろげ又まっすぐにして、成るべく遠望のきく場処に、所謂人力車の立場を設け、そこには里程表と籤を引く麻縄の束を引掛けて、仕事着に足ごしらえをした村の若者等が、何人か順番に出て待つことにして居た。電話も自転車もまだ発明せられぬ時代だったけれども、網曳き後押し付きの大事な客人は、やはり前以て通知が出来るようになり、従って要処要処の大きな立場だけは、大抵はきれいな茶屋、又は旅館に従属するようになり、私などの七つ八つ頃には、もう少しずつ所謂脂粉の気がただよい始めて居た。(『故郷七十年』)
 恣意的な引用ではない。通常なら「私」について記すだろう自伝においてさえ、柳田は自らを取り巻く「事実」の民俗誌的記述を心がける。この「事実」をどこまでも求める飢餓感こそ、内省を徹底化する者固有の存在感覚である。それは単なる反省でも自己否定でもない。主観的になりがちな「私」を、それを形成する社会的事実の記述によって批判的にくつがえし(揚棄し)、社会の一部として位置づけ直す具体的実践としてある。……
 だが私の疑問が直撃するのもまさにこの箇所である。
 …………
 これは柳田の自然主義の可能性なのか。むしろ弱点ではないか。ここで示されているのは「出来事」の記述どころか、そのような「固有」の「出来事」を、貧困という物語へと回収する犯罪的な「小説」ではないか。……微細だが重大な異議がある。柳田は「固有」の「私」を求めるからこそ、それを突き放す「事実」に何度でも目を向ける「ねじれ」のなかで、言語使用の幅を爆発的に拡張した。ならば柳田の「私」批判の核心は、そのような「小説」や「物語」をも批判する、唯物的実践としてあるべきではなかったか。「私」の主観性や空想性を批判するのは容易い。困難は、そのように語る「私」自身にも批判的であること、つまり「私」自身を「事実」の集積のなかに解体し尽くす過程にしかない。……
 …………
 もう一歩だけ進もう。柳田の思想の核心は、自己を突き放す「事実」に対し、言語使用そのものを変えていく実践にあった。それは、「いまだ生まれて来ぬ数千億人」と「すでに土に帰したる数千億万の同胞」へと自らを近づけていくことであり、そのような存在として自らを認めることである。その書式の覚醒は戦争という他者との直面を必ずしも条件としない。むしろ、ありふれた他者にこそ躓く私たちの卑近な日常を、普遍の相から見つめる眼差しを条件とする。
 折口[信夫]はそのような柳田の言語への態度を簡潔に言い切った。「先生の場合、神に対する態度の如く、言語に対する愛も深いのです」(「先生の学問」)。それは山の神や氏神といった固有信仰としての神ではない。資本のダイナミズムによってアトム化を強いられた個人がそれでもなお、自らの私小説を、私小説的労働を、他者の力を借りて内省の果てに揚棄しようとするとき、そこに神がいる。神が嫌なら、社会でも、世界でも、宇宙でも、自然でも何でもいい。意識と存在の分裂を問い、それを開かせる力が、諸個体の内省に差し込まれている。対象を自らに所有する私小説の記述ではなく、自らを「事実」に所有させていく柳田の言語使用の彼方に、私は、絶対零度のエクリチュールを予感する。」
(大澤信亮「私小説的労働と組合」)
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