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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<生きる屍の生2

小林 最近は文章というものを気にしなくなったな。いろんな習慣も手伝っているだろうが、文章というものは人間の手足みたいなものだろう。とくに僕らには手足みたいなものにならなきゃ、われわれは文士じゃないからね。それは可能なんです。大げさなものではなく、文士という職業の一つの習性だよ。それがなければ心がなにもできていないことだ。にもかかわらず本当に自分の手足になっているような文章を書く人が今だんだん少なくなっているような気がする。そういうことを僕は職業からくる一種の感覚でわかる。どの程度こいつは文章が身についているかいないかがわかるんだ……。散文ってものはね、そこがまた面倒なところだが、まずくてもおもしろい文章だってあるんだ。生きている文章ってものがある。うまくたって死んでいる文章がある。死んでいる文章は私には縁がない。少し読んでいれば死んでいるか生きているかわかるんだから。贅沢なはなしじゃないと思っているだけだよ。人間はだれだって、文章なんかには関係なく生きた言葉を使っているんだからね。使わざるを得ないだろう。そういうあたりまえのことが文章にでてなきゃ駄目じゃないか、というだけのことだ。言葉の混乱などということと問題が違う。混乱したってちっともかまやしない。混乱したって生きた文章ってものはあるわけですよ。それを使うのが文士だろう。これから、そういう文章がきっと出てくるかもしれないですよ。品がないなんて、だいいちそんなものないんだからね。
中村 『貧しき人々』でマカール・デェーヴシキンという男が、あれは美しい人だけど、とんでもない文章に感心するところがあるでしょう。変な作家の……。ああいうことをドストエフスキイはどうしてやったのか。事実ああいうことがあったということかしら。それとも趣味というものはそれほど大切なものじゃないということですか。
小林 ドストエフスキイという作家の感受性というものは、独特のもので、あんな人はめったにないのだが、眼がじかに人間に行くんだよ。人間以外に全く興味をもっていない。そこから来ている。そういうことですよ。あれは本当におもしろい。美術展覧会評なんてみればよくわかる。絵なんか一つも論じてない。描いてあるものを論じている。だからあれは絵なんてものに全然興味がないんですよ。音楽論というものもないでしょう。僕はチャイコフスキイのことがどこかにあるだろうと思ってずいぶん探した。ありゃしないのだ。だからデェーヴシキンのそういうところが面白い。ああいう敏感さが文士には大事なんだね。私なんざそこからみりゃ文士としての落第生ですわ。文士はそういうものじゃいけないんだ。
中村 小説家だね。
小林 小説家というものはそれでなきゃいけないんですよ。ああいう人からみればたいていの小説家は気取屋で、人間に興味をもっていないよ。人間にあるだけの興味をもつということが小説の根本なんだね。それができてない。西鶴の文章のよさってそこにある。西鶴って読んでいるとやっぱり感動するところがあるからなあ。
中村 なるほどね、それはおもしろい。
小林 ああいう男はつまらんなんていうことは言わないのだな。
中村 ということは、一方からいうと非常に野暮な人であるということ。
小林 そうじゃない。
中村 どうして。
小林 人間批評家でなければいけないんですよ。
…………
中村 普通の文学者は言葉の体系ができるとその中で生きちまうんだな。で、その体系をどこまで洗練できるか。それで結構やれるんだ。しかし小説の天才は、西鶴とかドストエフスキイとかバルザックという人は、そういうところからはみ出ているところがあるでしょう。
小林 何から?
中村 そういう言葉の世界から。
小林 あなた、それを言葉というの。
福田 ドストエフスキイの場合、僕は深く読んでいないんだけれど、人間を本当に書こうとして人間を見ていて……人間というと少しおかしいけれども、小説を書くときには、言葉が自分の手足のようになって、もっと自由じゃないのかしら、たとえばここにあるものを正確にみてとって、自分との距離も一々計算しないでとるといったように、手足のように言葉が動いているんじゃないかなあ。
中村 そうでしょう。悪い小説を読んでいると言葉の世界を歩いているような気がするんだね。いい小説だと言葉の世界を越して向うの人生にじかに触れているような気になるでしょう。僕の言うのはそういうことだ。そういう境地になるには本当に自由につかんだりしなきゃいけないわけだろうと思う。
…………
小林 そういうことと違うんだね。要求がある。やはりそういうものの要求じゃないのかなあ。その要求に従って書いていればいいわけなんでね。要求がなけりゃ、これは資格がないんだからほかのことをすりゃいいんだ。新しいところでバルトークにしたって強烈なものがある。最後までそれを通している。バルトークは僕はおもしろいな。要求が強いからね。どういうわけで、あんな頑固な要求があるかと思う。ああいうものとたいへん違うことは、たとえば今のアメリカ音楽には要求がないんだよ。要求がある人はジャズをトコトンまでつきつめてしまうだろうが、要求がない人はそれじゃあまりつらいんだね。おもしろさがわからないということは、結局、人間がわからないことだと僕は思うね。一番おもしろいことは人間がわかることだよ。愉快になることじゃないよ。バルトークの音楽なんてちっとも愉快じゃない。あんなつらくて、あぶら汗が出てくるような音楽ってあまりないですよ。だけどそれはいかにもおもしろいね。そういう感想を音楽家にいうと「そんなふうにバルトークを聞きますか」と言うけどね。そりゃプロコフィエフとは違いますよ。サルトルなんて僕につまらないのはそういうものがないからだ。サルトルよりバルトークの方が僕にはおもしろい。自分の内的な要求通りにやったということです。現代にはああいうふしぎなものがありますね。それはピカソにもあります。もっと複雑ですけどね。ピカソのそういうものはまだよく分析している人はいないね。たとえば小品でも人間二人、男と女、こっちは男だからこっちは女だろうというようなやつがテーブルで向い合ってすわって、とてもいやなものが現れている絵があるね。ああいうものは画家は無意識かもしれないけど、こっちは小説家的な目で見るから感じるね。……心理的にみて現代というものがすごくよく現れている絵があるね。現代の心の基底に行きついているという感じを受ける。これはひと昔前ドストエフスキイがやったことと同じことだ。ピカソはやっぱり天才だよ。美というものはリアルなものなんじゃないか。リアルなものはたしかに人を動かすね。ノン・フィクション的手法を使えば、リアルなものにお目にかかれるというような考え方は現代小説家の怠慢を現しているように思われるな。」
(小林秀雄×中村光夫×福田恆存「文学と人生」)
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