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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<すれちがえ人類

「これ〔正岡子規の『仰臥漫録』〕は〔中江〕兆民の文章と比較してみると、非常に病気自体を淡々と、しかも克明に書いていますね。読んでいて非常にしんどい状況ですね。そのしんどい状況を身も蓋もないくらい率直に書いている。それがやはりその、子規のいうところの美というものですね。子規がいうところの理というもの、兆民のテキストの「余や男子、且つ頗る書を読み理義を解する者、このうち又自ら楽地有りて、時々大疾の身に在ることを忘るるに至る」こういう悟りの理、悟ってしまった理とは全くかけ離れた場所ですね。
 …………
 ……兆民が、「余や男子、且つ頗る書を読み理義を解する者」といった武士的な立派な、病気の中でも節度を持った人間としてなんとか生きようとする、それはそれで立派なんだけれども、子規はほとんど子供ですね。もうとにかく死ぬと分かっているなら、お菓子が食べたい果物も食べたい、どんどん持ってきてくれればいいのにといって、理を解するものとかなんとかではなくて本当に子供みたいに、泣いて喚いて我が儘放題。でもそれが美なんですね、子規のいうところの。要するに、自分は理を解しているんだといって虚飾をはって、理によって自分に体裁をつけて、お互い死のうかなんていいながら、ちょっと杏かなんかを買ってくる。一読すると爽やかなんだけれども、そんなものは本当の美ではないんだと子規は云う。自分はもうどうしようもないところにある、泣いて喚いてもがいているわけです。それを本当に格好もなにもつけずに、露骨に、容赦なく書いてしまっている。
 …………
 ところが、子規が示した渾身のリアリティに対して漱石の世界、特に『明暗』の世界は、むしろ本当ということが分からないことが問題となっている。
 …………
《嘘をいうつもりでもなかった津田は、全然本当のことをいっているのでもないという事に気が付いた。》〔百三十八回〕
 嘘ということを意識もしなければ、しかしそれがまた事実でもない。じゃあ本当のこと、真実はどこにあるのだろうということを考えると、真実というのは単純には見つけられない。
 …………
 子規のリアリティに対して〔夏目〕漱石の世界、特にこの『明暗』の世界においては、むしろ、本当ということが分からないことが問題になってしまっている。
 だから子規が、あられもなく出した、言文一致のリアリティ、それは思惟と表現の一致と考えていいのだと思いますけれども、また喋るように考えるということは、もちろんこれは、聴覚的なものと視覚的なものが一致するということでもあるし、同時に話したり議論したり、そういう思考とか議論の過程がそのまま表現されるということにもなる。
 強くいえばデカルト的というか、近代的な、自分自身と自分の考えている事が一致している。そこで成立する自我。存在と本質の一致というか。考えている自分がいる、この言葉この思考は間違いなく自分のものである、言文一致の中で、そういう自我、思惟と自己の一致といってもいいし、そしてそれとまた表現が一致する。それを子規は病気の中で非常に強烈な形で打ち出した。
 この思惟と自己、表現の一致というものは、小説の世界に持ってくるとどうなるのか。言文一致というものと近代小説というもの。これは漱石自身だけではなく、近代文学全体の問題なのです。
 小説において裂け目ができてしまう。ずれ、錯誤、取扱いの間違い、そういう手続きの間違いといったものの中からしか、小説の真実というものは出てこない。むしろ写生文とか俳句とか歌の中では完全な一致として出てきたものが、ひとたび小説というジャンルに移すと、或いは小説という、要するに個人一人、子規一人がそこにいるのではなくて、津田が語る、お延が語る、秀子さんも語る、或いは吉川夫人も語るという、多面的な人間が交錯していく近代社会というものを映す小説の中でそれが表われていく。
 もちろん漱石の中ではずっとそうした近代性があるわけですし、それが今日まで読むに値する作品でありつづけている原因でもあるのですが、漱石という人が一番近代小説に近いもの、或いは近代小説になっているとすれば、やはりこうした錯誤というもの、あるいは食い違いを正面にすえたことでしょう。
『明暗』の凄さ、水準の高さというのは、一人一人が他の人間が全く分からないというだけではなく、その対話を通じて明らかになるのは、一人一人が自分のことも分かってはいないということですね。誰も自分自身のことも分からないのだ、自分にとっての真実なんてことはどこにあるのか分からないのだ、ということがどんどん明らかになっていく。それがこの『明暗』という小説の恐ろしいところですね。
 小林という人物が出てきます。津田の旧友ですが、落魄してしまい、何かと津田を追回し、たかる人間ですが、この人はほとんど偽悪的なまでに自分の卑しいところ、嫌なところを自分ですくっているつもりでいながら、その人間でさえ、自分の感情なり自分の真実というものに不意打ちを喰らってしまう。そういう、人は他人のことも分からないし、真実において理解できないだけではなく、自分自身も分からないのだというところまでいってしまっている。
 自分自身が分からないというモチーフと通じるものですが、『明暗』では身体、病気というものが一方の主題になっています。……
 ……肉体というものが西洋医学の中にさらされた時に、心身の一致のような、一種のコスモスとして身体を捉えるのではなく、自分にとって、精神にとっての客体として身体が見られる。そうするとその身体というのは、自分の意志とか個人個人の意志とは関係なしに何が起こるか分からないという世界であって、しかもそれが自分の体だという、そういう理不尽な恐怖。それから一歩進んで今度は、精神もそうなのだ、心だって自分にとって分からないのだと云い出す。ここで特に「そうしてその変るところを己は見たのだ」というところが、この小説のメイン・モチーフで、お延と結婚する前に、清子という女性が、津田から見れば突然何の理由もなく津田をふって、捨てて行ってしまった。そういう人間の心の変化にたいする理不尽な経験や思いを描いている。
 …………
 愛情というものについて、女同士の間でも救いがたい認識の差があるということだけではなくて、愛情というものを強く求めるお延の心理、これは例えばそのあと百四十八回辺りのお延と津田のやり取りによくでていますけれども、本当は津田は妻には関心がないからこそ、表面上は大事にして尊重して指輪なんかを買ってやる。そういうのは面倒臭いから買ってやるんですね、買ってやればそれで済むから。一方逆に外から見ると夫を尊重しているように見えない妻、入院した日に芝居か何かを見に行ったりするような、しかし実は妻自身は愛情とか愛情に対する欲望は強く持っているわけですね。そういう外面と実体の齟齬。或いは個々人の位相、互いが互いに対して持っている認識や意味合いも、自分に対する見方も全部ずれている。そういう人達が集まっているのが、この小説の空間で、この『明暗』のおもしろいところですね。逆に云えば、このズレとか錯誤をどういうふうに作っていくのか。漱石にしてみれば、このズレというのは修繕寺の大患で体験したような、個々自体の不連続性とか、還元とかコミュニケーションの不能というのが基本にあるのでしょうけれども。」
(福田和也「近代小説の空間」)
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