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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<賭博者=恋愛者の幻想(反復とあいまいさ)3

「……幼児のセクシュアリティは、セクシュアリティの真実もしくは基底(あるいは原初的な生産の場のようなもの)であり、その後、性器体制によって抑圧され/包摂され/規制される、というものではない。言い換えれば、ドゥルーズを教科書的に解釈したときに得られる概念、つまり、生産的な分子的多数多様体がまずあって、そこに高次のモル的秩序が寄生しているという概念を、セクシュアリティに当てはめるべきでは絶対にない。セクシュアリティは、性関係はないという事実によって規定されており、部分欲動の多型倒錯的な戯れが生起するのは、この不可能性/敵対を背景としてなのである。したがって、性的行為(性交)には両面あることになる。オーガズムという性行為の絶頂の裏面は、不可能性という行き詰まりである──セクシュアリティをむしばむこの不可能性、内在的障害を主体が経験するのは、性交という行為を行っているときなのである。こういうわけで、〔性器の結合という限定的意味での〕性交はそれ自体では成り立たないので、霧のような幻想だけではなく、部分欲動という支え(愛撫やキスからはじまって、軽く叩いたり強く抱きしめたりするなどの「些細な」愛の行為にいたるまで)を必要とするのである。こうして、性交という行為は、カフカの小説『城』で描かれた〈城〉に少し似ていることに気づく。〈城〉は近くで見ると、山のように大きなおんぼろ小屋のようだが、少し下がって適当な距離を置いて見ると魅力的な姿を現す。性交という行為も、その直接的な物質性に焦点を合わせると、バカバカしい反復的な運動から成る野卑な行為に見えるが、幻想という霧のなかで見ると、強烈な快感の頂上にいるように思える。ラカンの用語でいえば、性交という行為の正面がS1、つまり一連の性的活動をまとめ上げる〈主人のシニフィアン〉であるとするならば、その裏側は、S(/A)、つまりセクシュアリティの秩序における敵対/障害としての、線で消された〈他者〉というシニフィアンなのである。」
(ジジェク『性と頓挫する絶対』)
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