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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<普通文学5

「秋山駿のエッセイ『人間的ということ』を読んで、私は深い共感をおぼえた。秋山氏がいうのは、たとえば次のようなことだ。《今は、本当に〈人間的なもの〉がどこにあって、それがどういうものなのかを、自分の内に探してみても、外の現実の中に探してみても、その形だとか状態というものがいっこうによくわからない、どこへ行けば見出されるのかもわからない、そういう時だと思います》。
 …………
 人間的ということは何であるか、何が人間的なものであるか、……戦争を経験した人間はたぶん誰でもそう自問自答しなければならなかっただろう。が、重要なのはその自問自答を持続する意志である。解答など必要としない懐疑への意志である。率直にいえば、今日の戦後文学者(戦中派・戦無派をふくむ)のほとんどに、そういう懐疑は跡をとどめていない。懐疑の身ぶりがあるだけである。無残なのは、近年おこっているおびただしい奇妙な事件に対して示す彼らの反応ぶりであって、その鈍感さ・傲慢さに対して私は辟易するほかない。傲慢というのは、自分の用意したもの、自分の理解しうるものの領域の外に一歩でも出ないということである。この場合には、「経験」ということが逆の働きをしている。新しい現実を、古い経験の枠の中におしこんで安心しようとする。むろん懐疑の身ぶりをしながら。だが、現実に対して用意のある人間などいやしない、というのが彼らの真の「経験」だったのではないのか。
 事件は実は奇怪でも何でもないし、何の変哲もないものばかりである。心理学者や社会学者が何の苦もなく説明してくれるものばかりである。だから、奇怪なものはそういう説明にもかかわらずわれわれの内部にとどこおっているざわめきにこそある。われわれは何か揺すぶられているのを感じる。しかしその正体はよくわからないのである。」
(柄谷行人「人間的なもの」)
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