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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<トラウマの逆回し

「かねてから主張してきたように、われわれの実生活においては「関係の関係」、すなわち「メタ関係」は存在しない。……なぜなら、われわれにとっての関係性、つまりここでは社会学が言うところの「役割」的意味を完全に捨象した意味での関係性は、常に事後的にしか認識できない要因にほかならないからだ。そう、とりわけ性愛関係がそうであるように。
 小説が「関係の化学」を描きうるということ。しかも、あたかもその関係性の輪郭が、ことごとく事後的に理解されるようなしかたで徐々に析出してくるということ。ただし注意しよう。いま私は確かに「事後的」という表現を用いてはいるが、これは必ずしも、執筆や読解の時系列において「後から」であることを意味しない。
 この「事後性」について、手短にかつわかりやすく説明することは困難だが、ここに構造的因果性(アルチュセール)という言葉を補えば、いくらかましになるかもしれない。ややくわしく言えば、この因果性は、デカルトらによる機械論的因果性、ライプニッツやヘーゲルにおける表出論的因果性に対する、因果性の第三の分類である。
 ごく簡単に言い換えるなら、自然科学的な意味における再現性が安定的に保証されず、したがって予測が原理的に不可能であるような因果関係を指す。たとえば大雨が降り続ければ川が増水する。これは機械論的因果性だ。増水した川で溺れかけて、それがトラウマになって水辺に近づけなくなった。こちらも現代においては機械論的な因果性にみえるが、実は構造的因果性ということになる。何がトラウマ的体験となるかは予測が出来ない。症状は常にすでに、重層的に決定づけられることになるからだ。それゆえ、現在ある症状から事後的に遡ることで、事例の生活史全体におけるトラウマの意義が見出された場合においてのみ、こうした構造的因果性の存在を主張することが可能になる。
 私が小説において「幼少期の性的虐待経験が後に冷酷な犯罪者を生む」といった「図式」を批判するのは、いやしくも小説が、機械論的因果性によって汚染されるべきではないと信ずるからだ。小説が関係性によってドライブされるとき、設定やキャラクターの虚構性がどうであれ、この事後性のリアリティが一挙に起動し、読者として──しばしば著者とともに──まったく予測もつかない方向へと拉致されてゆく悦びが生まれる。それゆえ小説においてリアルな関係性が描かれる時、こうした予測不可能性の感覚は、たとえ結末がわかっていても、繰り返し楽しむことができる。
 あるいは、このように言うことも可能かもしれない。「トラウマ」に代表されるような固有かつ一回性の経験は、常に事後性というベクトルを帯びている、と。いささかわかりにくいだろうか。体験がビデオテープのように逆転させたり巻き戻したりできるとしたら、これらの体験はデジタル的な認識ユニットを形成していて、そこだけは逆回しできないしくみになっているのだ、と。そう、私はまさに今「ベクトル」という、空間的な語彙を用いた。事後性とは、ある種の対称的空間構造を想定するときに、はじめて露わになってくる非対称的感覚のことなのだ。
 もしそうだとすれば、私の考えている「関係性」とは、およそ常にトラウマ的な経験と言うことができるだろう。」
(斎藤環『関係の化学としての文学』)
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