「浅田 そういう母子融合のヴィジョンを、いちばんつまらない形で解釈されたバタイユの連続体回帰願望と結びつけると、クリステヴァになると思う。サンボリックな層における父権的な分節に対してセミオティックな層における母性的な溶融の持つ転覆力に賭けるわけでしょう。その種の分節秩序と連続体の弁証法に還元しちゃうと、バタイユってのはどうしようもなくなるよね。普通バタイユというと、『呪われた部分』なんかを拾い読みして、古代社会の経済理論を立てた人みたいに思ってる人もいて(笑)、そこでは日常の分節秩序と祝祭における混沌とした溶融とが弁証法的に交代するとかさ。
……それはいちばんつまんない部分だと思うね。もしそれだけがバタイユの可能性だとすれば、それを近代に持ってくるとほとんど無効になって、いいところがなくなっちゃう。つまり、混沌としたエネルギーが常に暫定的に日々の成長の中に誘導され解消されていくような近代資本主義社会では、その種の日常と祝祭の弁証法的な交代というのはほとんど成り立たないわけでしょう──周期性そのものは景気変動のスパイラルという形の中にかすかに残っているけれど。
それと、そういう二元論自体が近代のイデオロギーとして機能してるところがあってさ。父権的な分節秩序を母性的な溶融状態が裏打ちするという形になってて、それは、フーリエの話をしたから言うんじゃないけど、ほとんどサン=シモン主義の構図だと思う。昼間は分業によって産業化を推し進め、夜は女性メシアの体現する一種の融合的共同性を夢見るとかさ。そういう意味で、クリステヴァはほとんどサン=シモニアンだと思うのね。
……昼のゲゼルシャフトが分解しないように、夜のゲマインシャフトで裏打ちしてやる。それはまた父権的な支配と母性的な包摂の巧妙なコンビネーションでもあるわけね。近代資本主義と家族という問題設定の中で、父権的な秩序のツケは母性的なものが払わなきゃいけないという格好になってる。こうしてみると、母子の融合した状態のようなものは、超歴史的なヴィジョンとしてあるという以上に、むしろサン=シモン主義に代表されるような資本主義の再テリトリー化の要請としてあるような気がするのね。」
(中沢新一+浅田彰「ジョルジュ・バタイユ──不可能な侵犯」)