「福田 確かに〔大竹伸朗は〕放哉に近いですね。自由律俳句が目指していたのは、俳句において、その調べとかなんかとは全然関係ない、一瞬の、持続がない旋律みたいなものをどういうふうに取り出すか、ということですから。それこそ直接に触れているモノのアタック音というか……。そこで、それを見せるためには、やっぱりちょっと自分を滅ぼさなきゃならない。
椹木 そこであらためて思ったのは、大竹伸朗って滅びずにやってきてますよね。滅びの道に通じつつ滅びない。
福田 大竹氏はカラオケで〈浪花恋しぐれ〉を歌ってるからだと思う。多分それが放哉にはなかったんですね。ちゃんと自分を笑う視線があるでしょう。柄谷的ないい方だけど、ユーモアがあるからいい。
椹木 それがなくなると滅びてしまう。
…………
福田 〔『日本人の目玉』の〕小林秀雄の章に書きましたけど、ほんとに近くに寄り切ってモノを見ていると、もう笑うしかない、みたいな行き場のなさに突き当たる。ユーモアというよりグロテスクな笑い。そっちのほうは日本の美術家にけっこうありますけどね。でも自分自身をちゃんと笑う人は案外少ない。ユーモアかアイロニーか、っていうと、やはりグロテスクな笑いのほうが、セリーヌとか、ドストエフスキーなんかの笑いのほうが、日本の美術の人たちには近いんじゃないかな。でも松田正平なんかはユーモアなのかな。」
(福田和也×椹木野衣「「批評」のサバイバル」)