「だいたい、捨てられたり親からはぐれてしまった子猫なんて、その同じ時刻に日本の中だけでも何百匹といただろう。こうして私が家の中でこんなことを書いている時刻にも、拾われなければ死んでゆくしかない猫がたくさんいる。保健所にいけば処分されるのを待っている猫も犬もいる。アフリカでもアジアでも中南米でも飢えて死ぬのを待っている子どもたちがたくさんいる。だから、私がいまここで立ち去ってしまっても、世界全体で起こっている生き死にには何も関係がない、と言って、さっさと立ち去ることもできるし、そんな子猫ごときにかかずらっているヒマがあったら、世界の難民救済の募金にでも行った方がいい──というのは一見正しい理屈のように見えるかもしれないけれど、じつは全然正しくない。
それは世智にだけ長けて、わかったようなことを若いタレントに向かって頭ごなしにしゃべる、五十すぎの関西芸人の理屈にとてもよく似た理屈で全然正しくない。そういうバカな理屈を出す人にかぎって世界の難民や飢えた子たちへの募金をするわけではないということではなくて、人間というのは、自分が立ち合って、現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ているからだ。人間の思考はもともと「世界」というような抽象でなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ。そこに自分が見ていない世界を持ってくるのは、突然の神の視点の導入のような根拠のないもので、それは知識でも知性でもなんでもない、ご都合主義のフィクションでしかない。もっともそんなことをいくら強調してももともと捨て猫に関心のない人は別だ。現にここでも人だかりをかすめて子猫の横を歩いていった人たちもいた。それはそれで仕方ない。」
(保坂和志「生きる歓び」)