「彼女は家の中を片づけ、ちょっと大変な事態になったといちおう〔元から飼っている〕二匹の猫にも説明し、そのあいだに私は段ボール箱を薬屋からもらってきて……、買い物をした。二月三月に書いていた小説は四月にいろいろ用事があって中断していたが、これで五月も書けなくなったと思った。でも状況を引き受けてしまえば、谷中の墓地でさんざん感じていた〔子猫を〕飼うことの手間に対する躊躇は関係なくなっていたし、小説の中断なんかも全然関係なくなっていた。それより横浜ベイスターズの試合を当分見に行けそうもなくなったことの方が残念だった。
これでしばらく子猫の世話にかかりっきりになることが決まり、その間自分のことは何もしない。できたとしても私はしない。大げさに聞こえるとは思うが、自分のことを何もせずに誰かのことだけをするというのは、じつは一番充実する。野球やサッカーの応援だってそうだ。選手は金をもらっているけれど、スタンドで応援する方は一銭にもならない。それでもみんな仕事や生活の時間をさいてスタジアムに行く。親や子どもの介護で一日の大半を使い果たし、それが何年も何年もつづく人たちは、「何もしていない」のではなくて、「相手のためにずっといろいろな面倒をみる」ということをしている。
人生というものが自分だけのものだったとしたら無意味だと思う。人間が絶対だと思っている人は無駄だと思うかもしれないが、私はそう思っていない。……二年半前に家の一番若かった猫がウィルス性の白血病を発病して、一カ月その世話だけに使ったとき私は、自分以外のものに時間を使うことの貴重さを実感した。
そう書くとすぐに私が常時それを望んでいると誤解する人が必ずいるけれど、望んでいるわけではない。そんな時間はできれば送りたくはない。逃げられないから引き受けるのだ。そして普段は横浜ベイスターズの応援にうつつをぬかしていたい。」
(保坂和志「生きる歓び」)