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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<愛と自己破壊

「小説の場合、表現というものは、作者が終始かわらず追いつづけている「精神の構造」をあらわすことで、ある作品が堅固な作品であるということは、文章のかっこうがついているということではなしに、自分のもった「構造」にふさわしい文章を書いているということにすぎないようです。
 …………
 誠実な作家は、いや作家は誰も誠実であろうとするものですが、作家が創作活動の中で生きようとすることは、現在の自分を新鮮に牽引し、自分を混乱させ、自分の存在を危機に陥しいれようとする現実を、人間を、何とか作品化することです。作者が危機を感じるとは、どういうことか、というと、それは自分の「精神構造」が崩れるか、それでは処理できないと直感することです。にもかかわらず、その現実に立ち向かって、石にノミを入れるように、そして一つ一つのノミに、何ごとかを賭けながら刻む時には、作者は充実感をおぼえ、存在感をもつことが出来ます。表現とは、もちろんこの存在感、充実感をもつことですが、私がいいたいことは、このようにして、自分の「構造」が物の用に立たなくなったかの感がある、と思い筆を進めた結果、出来た作品は、実は不思議なことに、結局のところその構造は自分の「精神構造」以外の何物でもないということがわかるということです。
 作者は自分の「精神構造」を忘れ、しかも「精神構造」によらなければならない。だから作者は、もはや賭けるよりしかたがない。
 先程私は石にノミを入れる、といいましたが、ここにある材料としての石柱、または石塊のまわりをまわりながら、ノミを入れる場合のことを考えてみると、その事情は納得がいくと思います。一つの面は他の面の責任を負わなければならない。ここでは一瞬一瞬は一つの面しか担当できない。次の面へうつった時、次の瞬間がある。このようにして、作者のノミは、いつも現在を担当するが、それでいて、その一瞬は次の一瞬の責任を負わなければならない。前面を彫りながら、背面を考慮に入れていなければならず、しかも作者がその一瞬を担当することは、前面から前面だけである。このように現在に賭けるということは、前面の場合、背面を考えない、拒否するというのではなしに、背面のことを考慮することは、前面なら前面においてしか出来ない、ということです。ここで作者は、義務よりも愛の領域に入るのです。愛という漠然とした、心の状況の中でノミを打ちこんで行く時、前面と背面とをつなぐ、全体の構造の中に、作者の精神構造は、現在のつみ重ねの中で、おのずから、その体をなす。作者の義務は結果あらわれてくる。義務こそいってみれば、作者の精神構造なのです。」
(小島信夫「思想と表現──ゴーゴリ・ドストエフスキー・カフカ」)
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