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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<微視的トラウマ

「……書きにくいことを書くことはたしかに苦しいし、手間も時間もかかる。しかし、その過程で小説家はたくさんのことを考えて、考えることで技量も確実に上がる。ここで言う「技量」というのは、単純な「技術」「テクニック」のことではなく、書こうとすることが思いどおりに書けなくても簡単に投げ出さないで、それに辛抱強く労力や時間を費やしつづけることができるようになるということだ。
「書きにくいこと」を辛抱強く書くうちに、小説というものがどういうものかが感じられてくる。その中身については、なかなか言えない。……それはともかく、「書きにくいこと」を書くことで本当にいろんなことを山ほど感じることができて、それゆえ小説家は書きながら成長するのだが、それは広い意味で小説にとっての「辺境」を発見することだとも言える。

 話は少し迂回するが、二〇世紀前半の小説は、地理的な「辺境」を書くことで活力を得ていた。E・M・フォースターのインド、イーヴリン・ウォーのアフリカ、マルグリット・デュラスのインドシナなどがその例で、……しかし、現在、そういう地理的な意味での辺境はなくなってしまった。
 では、今どこに「辺境」があるのかといえば、それは「人間の内面」だと思う。
「人間の内面」なんて、そんなもの、最初から文学の題材だったじゃないかと言われそうだが、文学はいままで「人間の内面」を所与のものとして(つまり「ある」という大前提に立って)、それ自体は手つかずのまま、その産物としての恋愛や嫉妬、殺意などを扱ってきただけではなかったか。
 いや、「幼児期のトラウマ」などいくらでも新しく問題にされているじゃないか、と言う人がいるかもしれないが、それらが犯罪者など特定の人格に押しつけられているのが内面を発見しきれていないことの証拠で、私たちの大半は「幼児期のトラウマを抱えつつ普通に生きる」という、その普通さが理解されていない。そして、一方では、わずかここ一〇年くらいのあいだに、DNA、アドレナリン、言語野、海馬……という言葉がどんどん広まってきて、“機械化された人間観”というようなものが、「人間の内面」を正しく説明しないまま、私たちの人間観を浸食しはじめている。
 …………
 脳科学によって説明される人間の仕組みの、「心の発生」のようないちばん当たり前で根本のところが全然、解明されていないことからわかるように(だからこそ「辺境」なのだ)、人間が普通に人間でいることがいちばんの不思議で、今後書かれるべき題材は、この「普通であることの不思議」しかないと私は思うのだが……。」
(保坂和志「何を書くか?」)
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