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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<あなたの死の想い出

「ドストエフスキーもまた〔ロラン・バルトと同様に〕マリヤの写真を手に取れば、もの狂おしくその映像の中へ駆け込んで「すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているもの」を抱きしめたにちがいない。「憐れみ」という「奇妙に古くさい名前」で呼ばねばならぬとしても、それは「恋愛感情よりももっと豊かな」、或いはこう言ってよければ強烈でいたましい「感情のうねり」なのである。バルトが「憐れみ」と呼んだこの感情は、ロシア語ではソストラダーニェ(文字どおりには、ストラダーニェすなわち苦しみをともにすること)と訳すのがふさわしい。それは他者の苦しみを自分の苦しみとすることだ、と言えば口当たりはよいが、「まさに死なんとしているもの」の苦しみをともに苦しむとは、自分もまた自身の死をまのあたりにして苦しみ悶えるということを意味する。他者に対する「憐れみ」は、自分自身の死の感触によって裏張りされているのである。ニーチェの言うとおり、同情には確かに、喉にひっかかると神をも死に至らしめるような骨があるのだ。じっさい、かの死刑囚も十字架に向って歩み、自分の死という門を通過することなしには人類を真に憐れむことができなかったのではないか。翻ってそれは、ひとは卑近な他者を、その死をいたむように憐れむことなしには、自分の死とさえ本当には直面し得ないということを意味する。死をめぐる、他者ぬきの瞑想は、どんなに深遠なものであれ、すべて空想なのだろう。
 …………
 ……ドストエフスキーもまた〔ロラン・バルトと同様に〕、「もっとも愛する人」ぬきでは「『死』の恐ろしさ」について何も考えなかった。マリヤの死について何も言えず、「その人の写真」についても何も言えないということ、ただそこにおいてのみ「『死』の恐ろしさ」について考えたのだ。むろん、彼女の写真を見れば、何かを思い出したにちがいない。だが、その思い出は彼には「苦しみ(ストラダーニェ)」に等しいものだったはずである。しかも、思い出される瞬間が幸福なものであればあるほど、そこから受ける苦痛はそれだけ大きくなっただろう。狂ったように彼女の写真の中に駆けつけてそこで「すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているもの」を抱きかかえて口づけるとは、ついには彼自身の死をまのあたりにして苦しみ悶えることにほかならなかったからである。マリヤの写真を見て彼が思い浮かべることのできた唯一のこともまた、自分の死は彼女の死の先のほうにしか記入されていないということだけだっただろう。この二つの死のあいだにも、もはやただ「待つこと」しか残されていなかった。「待つ」とは、ドストエフスキーの場合、目交いに懸かるマリヤの動かぬ屍体を凝視しながら「マーシャに将来出遭うということがあるだろうか」と復活を問い続けることだった。」
(山城むつみ「写真の中の死、復活、その臭い──『白痴』」)
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