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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<可能性感覚2

「元来小説というものは、様々な芸術のうちで最も自由な形式を持っているもので、小説作者は小説の技法に音楽を利用しようが、絵画を利用しようが、何を利用しようが一向構わないというあんばいであるが、作者がどういう方法に頼ろうが、実生活というものの模造品を言葉で造り上げ、読者にあたかもその模造品を生活している様な錯覚を与えなければならぬという小説の原則を、変更することは出来ない。この原則は、あまりわかり切っている為に、小説に関する方法論が精妙になればなるほど批評家はこれを振返って見なくなるし、作家も制作の方法の万能に苦しみながら、この根本の原則が、現今どんなに小説家の重荷になっているかという事を忘れ勝ちなのである。
 恋愛もしなければならぬし、人も殺さなければならぬし、その他作者の命ずる事を、読者は何んでも為なければならぬ。こんな驚くべき虚構をその根本原則として持っている芸術は、小説を置いて他にはない。絵や音楽は言う迄もないが、同じ言葉の芸術である詩でも、そんな嘘は必要としていない。……リアリズムという事を言うが、それは小説家の使う或る種の技法なのであって、読者が小説鑑賞において使用する事は厳禁されている。詩人はリアリズムという技術をあんまり気にかけない代りに、読者には断然これを要求している。どんなに感傷的な詩でも、それが歌であり、その歌に人が感動する限り、歌と言う一つの生まな事件に直接参加しているのだが、どんな冷酷な小説でも、その小説を楽しむ以上、読者はしてもいない生活をしているという空想に酔う必要がある。
 小説の面白さは、他人の生活を生きてみたいという、実に通俗な人情に、その源を置いている。小説が発達するにつれて、いろいろ小説の高級な面白がり方も発達するが、どんな高級な面白がり方も、この低級な面白がり方を消し去る事は出来ないのである。小説は僕等が日常話したり聞いたりする物語と本質的に少しも異ったものではない。噂話に耳を傾けたり、歴史的事実に興味を感じたりする時の、もし「自分があの男なり女なりだったら」と思う僕等の止み難い空想を、小説はただ故意に挑発する為に工夫されたものなのだ。」
(小林秀雄「現代小説の諸問題」)
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