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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<嫉妬の格子

「「嫉妬」とは何か。ある定義によれば、それは……「自分より下であると思っていた者が実は自分よりも望ましい状態にあることに気づき、自分もそうなりたいと思うがなれないので(不満に思い)相手の幸福な生活のじゃまをしたくなる場合に起こる、むらむらとした気持ち」である〔三省堂『新明解国語辞典』〕。最後にあらわれる「むらむらとした気持ち」だけが「嫉妬」における正味の感情実質であり、他の条件はすべてそれの起こるべき脈絡を記述しているとみなすことができる。
 さて、それでは、この実質は「嫉妬」の成立にとって不可欠なものなのだろうか。かりにもし上記のような脈絡を欠く状況で、その実質が生起したとすれば、「嫉妬した」と言えるだろうか。もちろんそれは言えない。では「嫉妬したときのような(あるいは、嫉妬したときに起こるのに似た)気分になった」とは言えるだろうか。おそらくはそれもまた不可能なのである。この点において、「嫉妬」は「怒り」とはまったく性格の異なる感情であることがわかる。「怒り」においては、脈絡を欠いていても、怒ったときに起こる実質(怒ったときのような気分)を、それ自体として認知することができた。「悲しみ」や「喜び」についても同じことが言える。なぜか知らぬが突如として悲しい気分になったならば、われわれは自分がなぜか悲しい気持ちになったことをすぐに認知しうる。これに対して、われわれは自分がなぜか知らぬが突如として嫉妬したときのような気分になったという状況を想像することができない。これは文法的な不可能性なのである。……
 嫉妬に関しては脈絡を欠く実質をそれ自体として特定し認知することができないのはなぜだろうか。それは、嫉妬に特有の感情の実質というべきものが存在しないからである。嫉妬しているときに起こる実質は嫉妬に特有の実質ではない。「嫉妬」にとって脈絡と実質の結びつきは偶然的であり、その実質は怒りや悲しみの水準に同化する。すなわち、「嫉妬」には、ある場合(たとえば相手の不当性が強く意識される場合)は「怒り」の実質をともない、別の場合(たとえば自分の無力さが強く意識される場合)は「悲しみ」のそれをともなう、ということがありうるのである。「嫉妬」の成立のために必要なのは、実質よりもむしろ表出であろう。「嫉妬するにふさわしい状況」と「嫉妬したときのような振舞い」がそろえば、それだけでじゅうぶん「嫉妬」の成立を語りうる。人が嫉妬しているかいないかを決定する最終的な権威は、感情実質を内的に認知しうる本人にあるとはいえない。誰がなんと言っても私は嫉妬などしていない、と言いはる権利が本人にあるとはいえないのである。」
(永井均「独我論──〈私〉の形而上学」)
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