「笑われることと読まれることはどこかでつながっているのかもしれない。
意図的に笑わせようとするのではない。非常に深刻な光景なそのまま、笑いを生むということがあり得るのだ。そのような笑いはもしかすると「読まれる」ことを通してしか生じないのではないだろうか。そのような笑いと「読まれる」を、自分自身に突きつけながら書くことができれば、もともと自分のものではないはずの言葉を自己に所有させがちな書くという行為を、べつの何かへと回転させることが出来るのかもしれない。それこそが言葉によって他人をも自分をも真に復活させる光源ではないだろうか。
フロイトはユーモアとは〈自分自身を子供のように取扱い、それと同時に、自分自身であるところのその子供にたいして大人としての優越した役割を演ずる〉精神のことだと言った。その根源にはもしかすると、他者によって読まれ、笑われたという、誰もが経験したはずの記憶があるのかもしれない。その力は生のある段階で消失してしまうのか。あるいはフロイトの言うように選ばれた誰かに貴重な天分として残るだけなのか。それとも読まれているという受動的な位相で復活してくるのだろうか。私は先に「人は人生の急所において無力な子供に成り下がる他ない」と書いたが、その滑稽な無力さが、慢性的な失語と自殺に陥っている誰かを笑わせる力になることもあるのだろうか。
それにしても、なぜ子供なのか。なぜ私たち大人は子供を笑うのか。
おそらく〈子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑している〉だけではない。こんなにも弱い生き物のくせに、まるで生きようとすることを疑わない、生きていることの真剣さが、生の否定に傾きがちな大人たちの疲れた心を、強く蹴るからではないだろうか。まだ行ける、と。」
(大澤信亮「出日本記」)