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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<美徳と悪徳の至る場所

「……「たとえばネロによる母親殺しも、それがなにかある積極的なものを含むかぎりにおいては犯罪ではありませんでした。オレステスも外見的には同じ行為を果たし、故意をもって母親を殺害しましたが、ネロほど厳しい断罪を受けておりません。それではいったいどこにネロの犯罪はあるのでしょう。一にかかってそれは、ネロがこの行為によってみずからを忘恩、無慈悲、不孝の徒として示した点に存するのです。(……)神は、そうしたネロの行為や意図そのものの原因ではあっても、このことの原因ではなかったのです」。まことに難解な文章だが、ここで助けとなってくれるのは『エチカ』の説明である。たとえば殴るという行為の、どこが積極的なのか、どこが〈いい〉のか、とスピノザはたずねている。それはこの行為(腕を上げ、拳を固め、力と速度をもって腕全体を振り下ろすこと)が、私の身体の一能力──この私の身体が一定の構成関係のもとでなしうること──を表現している点にある。それなら、この行為のどこが〈わるい〉のか。わるい、これはこの行為が、まさにこの行為によってその構成関係が破壊されてしまうようなものの像と結びついたとき(たとえば私が誰かを殴って殺してしまう場合)、そこに現れる。同じ殴る行為でも、その構成関係がこの行為のそれとひとつに組み合わさるようなものの像と結びついていたら(たとえば鉄を打ち鍛える場合のように)、それは〈いい〉行為であったことだろう。ということはつまり、どんな行為も、それが直接的になんらかの構成関係を分解してしまう場合にはつねに〈わるい〉、反対にそれが他と直接的に構成関係の複合・合一をみる場合には〈いい〉行為であるということだ。これに対しては、いずれにせよそうした合一と分解は同時に起こるのではないか、分解されてしまう構成関係もあれば合一をとげる構成関係もあるのではないか、と反論されるかもしれない。しかしここで肝心なのは、行為が相手のものの像と結びつくその相手が、この行為とひとつに組み合わさりうるようなものとしてあるのか、それとも逆にこれによって分解されてしまうようなものとしてあるのか、そのどちらなのかということである。二つの母親殺しに戻って考えてみよう。オレステスはクリュタイムネストラを殺す。けれども彼女はすでに自分の夫、オレステスの父親であるアガメムノンを殺害していた。したがってオレステスの行為はまさに、しかも直接的にこのアガメムノンの像と、〔いまはもう存在はしていないが、それ自体としては〕永遠の真理であるアガメムノン特有の構成関係と結びつき、これとひとつに組み合わさる。しかし、ネロがアグリッピナを殺す場合には、彼の行為は、それによって直接的に分解される〔その構成関係を破壊される〕当の母親アグリッピナ自身の像としか結びついていない。ネロが「忘恩、無慈悲、不孝の徒として」みずからを示したというのもそういう意味である。同様に、この私が「怒りや憎しみをもって」人に一撃をくわえるときには、その行動を私は、これとひとつに組み合わさるどころか、逆にこれによって分解されてしまうようなものの像と結びつけているのである。要約しよう。悪徳と美徳、いい行動とわるい行動の区別は、たしかに存在する。しかしこの区別は、その行為自体や行為の像のいかんにかかわっているのではない(「いかなる行動も、それ自体だけをとれば〈いい〉わけでも〈わるい〉わけでもない」)。さらにまたこの区別はその行動の意図、いいかえればその行動が導く結果の像にかかっているのでもない。ひとえにそれは、その決定のされ方、いいかえればその行為の像がどのようなものの像と結びつくか、その結びつく相手の像にかかっている。」
(ジル・ドゥルーズ「悪についての手紙」)
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