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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<小説という抽象機械

「津田という男は、「ついぞ今迄自分の行動に就いて他から牽制を受けた覚がなかつた。為る事はみんな自分の力で為、言ふ事は悉く自分の力で言つたに相違ない」ような男である。しかし津田だけではない、正体のさだかでない(未完であるために)清子という女をのぞけば、すべての登場人物がいわば「自分に始まり自分に終る」人間なのである。とはいえ、それは『道草』に出てきた健三の兄姉や養父母が示した庶民的エゴイズムではなく、なんらかの観念性をそなえている。しかもその観念性は、『道草』以前の人物が漱石と等身大の知識人であり哲学的であったのに比べると、少しも目立たないものである。『道草』においてはじめて、どんな哲学も知らないが「自分に始まり自分に終る」頑固な他者(細君)によって知識人健三を相対化してみせた漱石は、『明暗』においては、すでに知識人と大衆という断層をとりはらってしまっている。
 津田自身もそうだが、彼の妻(お延)、妹(お秀)、吉川夫人、小林といった連中はとくにインテリというわけでもないのに、きわめて論理的に語る。彼らは具体的な生活を離れたところで空疎な話をすることがないが、にもかかわらず明晰に自己主張して一歩も譲らないのである。こういう人間たちがはたして実在しただろうか。漱石が生きていた現実の社会はせいぜい『道草』のような社会であり、『明暗』のような社会はどこにもありはしなかった。しかるに、『明暗』には大正・昭和期のモダーンな小説がいかにもつくりものにみえるのに、不思議に実質感があるのはなぜか。『明暗』の世界は、『道草』を通過した漱石が、現実の未熟な市民社会を仮構上の成熟した市民社会にひっぱりあげたことによって生れた。『明暗』の意義は何よりもここにある。それは近代人らしい人間を仮構したのではない。その種の人間ならば、『吾輩は猫である』以来沢山書かれているが、『明暗』の人物はもはや「二十世紀の自意識」なる空疎なものと何の関係もないのである。
 …………
『明暗』は、『道草』を通過してのみ可能な世界である。作家は表現においてのみ成熟するとはこういうことをさしていうのである。『明暗』は、その世界が当時の生活意識の状態から観れば明らかに抽象物でありながら、モダニストが銀座や軽井沢を舞台にしてつくりあげた人工的な空想物ではない。それは、ことばの本来的な意味において「抽象的」なのである。たとえば、『それから』の代助は近代という観念に酔っている。それは今日の作家が現代という観念に寄っているのと大差はない、ただ後者が手のこんだ手法を用いているというちがいがあるだけだ。が、『明暗』の人物は近代という実質に苦しんでいる。もとよりそこには「近代人」がいるのではなく、たんに人間がいるだけであり、その人間たちは「近代」といおうが「現代」といおうが、とにかく観念とはかかわりなく懸命に生きようとしているにすぎない。そして、それが現代的な意匠をちりばめた実存文学などより、現代の実質を具現しているのである。
 お延や津田の世界、さらに彼らの世界そのものを根底的にくつがえしてしまう小林の世界、これらは「大正五年」の現実を、社会をあたうかぎり抽象しえている。ここでとらえられた「社会」は、のちに「社会科学」に依った貧寒な精神がつくりだした擬いものの社会ではない。」
(柄谷行人「意識と自然」)
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