「あるアルバイトの女の子がいた。もう5年も前の話だ。といっても、これは俺の作り話だ。そういう前提だ。
最初にその女の子が働き始めたときには、18歳だった。この商売をやっていると、高校を卒業したはいいが進路は決まっていない女の子、というのを使う機会が多い。フリーターとして店に入ってきたその女の子は、有能だった。勉強はできないし漢字はろくに使えなかったが、とにかくカンがいい。
カンがいい、ということの内実は、自分が積み上げてきた知識に対する自覚が堅牢だということだ。そのことは「自分が知らないこと」への鋭敏さをも意味する。業務のうち、日常生活のなかで積み上げてきた技術を転用できるものはすぐにそのようにする。他人と自分の比較参照に長けているので、人の知識を盗むのもうまい。
そうした特質を持つ人はそれなりにいるのだけれど、彼女において目立っていたのは、好奇心の強さだった。彼女にとって「自分の知っていること」以外のことは、すべて「知らないこと」だった。世界は知らないことに満ちている。驚きに満ちている。知ることは、ごく単純に、彼女にとって喜びだった。常識と呼ばれる知識体系のかなりが彼女には欠落していて、そのことはときに厄介ごとを引き起こしたが、彼女はそのたびごとに「そうだったのか!」と納得するものだから、それすらも欠点にはなりづらい。
こうした二つの特質が合致したとき、彼女はますます有能になっていった。
刺激に対して、彼女というフィルターを通して、きらびやかな光を放つ。
おそらくこうした状態にある人物のことを、人はこう表現する。魅力的だ、と。
…………
ところで、女の子の十代後半、特に18歳くらいから二十代前半くらいまでというのは実に不安定な時期だ。背景になにがあるかは詮索しない。とにかく不安定なのだ。そういう年代の女の子を多く使ってきたせいなのか、あるいは俺の生来の資質なのかはわからないが、俺はとにかくやたら鼻が利く。人間関係の空気なんざカケラたりとも読めないくせに、人の雰囲気の変化とやらいうやつに鋭敏なのだ。
きっかけがなんだったのかは覚えていない。たとえば話しかけたときの返事が常識的な定型句になっていることに気づいたときかもしれない。「すげーおもしれー!」と言っているときの彼女が、本当にそれをおもしろがっているようには見えなかったときかもしれない。
いまになって覚えているのは「あ、なんだか翳った」と思ったということだけだ。なにをもってして「翳った」のかもわからない。そもそもそんな変化は俺にしか見えていないものらしい。だから、手前勝手に「鼻が利く」という自分に対する評価を下した俺の、妄想にも似た思い込みかもしれないのだ。
しかしまもなく、彼女は「ふつう」になっていった。
仕事に関する有能さはあいかわらずだし、弾けるような天性の明るさもなんら失われることはない。けれど、刺激に対してどんな光を返すかわからない、わくわくするような楽しさは失われていった。どの刺激に対しても同じ角度で光を射出する、あの「ふつう」の人々の一部に彼女もなっていったのだ。
どうやら世界は、彼女に対して秘密を開示することをやめたらしい。彼女のまわりを、あの息苦しい常識とやらがとりまきはじめる。
そうだ。そのころから急に増えた彼女の口癖がある。
「わかってますよー」
これだ。
表面的にはやや照れたような表情でいわれるその言葉だが、どこか怠惰さに似たものが感じられた。どうやらわずかの時間に、彼女はなにかを知ったらしい。そしてそのことによって、世界は、裏返るように「知っていること」で埋まり始めた。知っていることはすでに固形であり、静物であり、彼女に刺激を与えない。おそらく彼女は「大人」という長い時間のスタートラインに立ったのだろう。」
(G.A.W.「傷つきやすい鏡」)