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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<破壊は愛のタブロー

「第二の意味は、この「恐怖」が愛だということである。……なぜ「恐怖」なのか。殺しだからだ。では、なぜ自白が殺しになるのか。「斧の代りに「秘密」は人の心を殺すに足りる」からだ。だが、なぜ「「秘密」」が斧の代りになるのか。自白が強いられているからだ。では、なぜ強いられているのか。さきに、ソーニャがラザロの復活を朗読することで秘密をラスコーリニコフに曝け出し差し出していたからだ。「今度は自分の番だ」。ラスコーリニコフは、リザヴェータ殺しの犯人が実は自分だということを自白することで、彼自身の「秘密」をソーニャに曝け出して与えねばならない。ここで、小林が「或る秘密」ともうひとつ別の「「秘密」」とを区別していることに注意しておく手間は省けない。……小林がまず注意するのは、ソーニャが彼にラザロの復活を朗読することで曝け出さねばならなかった秘密の場合、「秘密」と作者自身が傍点を付していたということである。「傍点を附したのは作者である。読者は、暫くの間でもいい、足をとめて、こういう傍点を附する時、作者はどういう想いであったろうかを想いみるがよい」。それは、たとえば、売春以前から、リザヴェータ同様、妊娠さえしたことがあった、彼女も胎児を殺したことさえあった、等々の、ありうべき個別特定の秘密ではない。それを彼に知らせることが「今、自分の持っているものを、何も彼も曝け出してしまう事」であるような秘密、彼女自身に対してさえ秘密であるような秘密、いわば彼女自身であるような本当の秘密である。ソーニャのこの「秘密」に匹敵するラスコーリニコフの秘密に言及するとき、小林は、既出のあの括弧付きの、ネヴァ河の水底に見え隠れしていた「「秘密」」を持って来る。「「秘密」は、今や自分自身に対する「秘密」になって現れたわけである。彼が即ち「秘密」となったわけである。誰に対して? 誰に対してでもない」というように。この「「秘密」」に比べれば、人を殺したということ、それがリザヴェータだったということはまだ「或る秘密」でしかない。むろん、今、ラスコーリニコフはソーニャに、リザヴェータを殺したのは俺だと自白しようとしているのだ。その意味では「或る秘密」を伝達しようとしているのである。だが、大事なのは、ラスコーリニコフはそのことによって、ちょうどソーニャが彼にそうしたように、彼自身であるようなもうひとつ別の「「秘密」」をソーニャに曝け出さねばならなくなっているということなのだ。しかも、小林は注意を促す。「人と心を分つとは、人から心を分たれる事に相違なく、人に心を与えるとは、人から心を貰う事に相違ない」。ラスコーリニコフは、やむをえず「或る秘密」を打ち明けようとするのだが、しかし、そうだからこそ、ソーニャから「秘密」を貰ったときに彼女に何かを与えることを拒んだように、今度は、彼女から何かを貰う事を拒絶しながら己れを彼女に与えようとせざるをえない。だから、「どうしても人と心を分ち得ない」。「己れを人に与えようとして、己れを人に強いる」ことになる。したがって、「或る秘密」などを与えても、そんなものは空しいと考えずにはいられない。「ソオニャに自分の心を分とうとして、自分の心の空しさが、ラスコオリニコフに現れる」。そのときなのだ、「彼自身が「秘密」になる」のは。それは、「秘密」が彼自身に対して秘密になるということだが、逆説的なのは、ソーニャという他者に対さないかぎり、そうならないということである。このパラドックスが分らないかぎり、彼は「空しく「秘密」」(傍点山城)であるほかない。したがって「ソーニャにたいする毒々しい憎悪に似た、異様な、思いがけぬ感覚」(傍点山城)に襲われる。右の引用の最初に「先ほど覚えのある感覚」が、不意に彼の心を凍らせたとあるのも、この「異様な、思いがけぬ感覚」のことにほかならない。ラスコーリニコフは「心を開くべき相手を感じながら、実は相手を感じず、感じ自体を感ずる」。その「感じ」とは、ソーニャがというよりも、ソーニャとの関係が彼に強いて来る或る絶対性の感触であり、それが「異物」の様に「外的必然」として意識の裡に闖入して来るのを感ずるのだ。だからこその「憎悪に似た、異様な、思いがけぬ感覚」であり、したがって「事態は犯行の場合に酷似」するのだ。しかし、それだけではまだ何かが欠けている。彼は自分を見つめるソーニャの眼に出くわして知るのだ。あの「感覚」は憎悪ではなかった、と。毒々しい憎悪と酷似していたから、自分の感覚ながら取り違えたが、それは憎悪とはやはり違う、「異様な、思いがけぬ感覚」としての愛だった。それは、もはや「或る秘密」をではなく、彼自身である「「秘密」」を彼女に与え、彼女から貰おうとすることだ。何を貰うのか。小林ははっきり書いている。「リザヴェエタの恐怖は、実はソオニャから貰ったものであり、ソオニャの恐怖は、彼自ら与えたものである」。ラスコーリニコフが、空しいと知りつつも彼自身という「「秘密」」を開示するその殺気はソーニャに「恐怖」を与えた。そして、ラスコーリニコフはこれに対してソーニャから「リザヴェエタの恐怖」を貰ったのである。殺される瞬間の彼女の「恐怖」を忖度して理解したのではない。そんな反省ならひとりでもできる。そうではなく、彼女の視野から、いわばリザヴェータになり、彼女を殺そうとしているラスコーリニコフ自身を垣間見て、殺される瞬間の「リザヴェエタの恐怖」を彼女の内側から触知したのである。いや、殺される直前のリザヴェータの動作を反復したソーニャによってそれを触知させられたのである。「彼は彼女の恐怖を、まざまざと感ずる」(傍点山城)とはそういうことだったのだ。そういう次第であれば、「恐怖がラスコオリニコフとソオニャを一人にする」と言ってもたしかに誇張ではない。二人を一人にするこの「恐怖が愛でない」とは誰にも言えない。それが「リザヴェエタの幽霊が出た」という小林の一文の意味だったのである。大事なのは、このときラスコーリニコフが「幽霊」を単に対象として見ているのではないということだ。リザヴェータ/ソーニャだけではなく、最後には、ラスコーリニコフ自身が、殺される者の位置に立って片手で相手の「秘密」という斧を受け止めようとしているのだ。「彼女の恐怖は、突然、彼にも伝染した。全く同じ驚愕が彼の顔にも現れた。全く同じ様子で彼も女の顔に見入った。そして、殆ど同じ様な子供らしい微笑さえ、その顔に浮かんでいるのであった」というドストエフスキーの本文を小林はそう読んだのだ。……
 「恐怖」に捉えられたソーニャの眼にあったのは「愛」だった。そして、最終的にラスコーリニコフに伝染し、彼が捉えられることになった「恐怖」もまた「愛」だった。であれば、逆から言って、リザヴェータに斧を振り下ろしたあのとき、「リザヴェエタの恐怖」の中にも「愛」があったのか。そして、あの瞬間、彼も彼女に、どうしても人と分ち得ない心(「「秘密」」)を彼女と分ち合おうとしていたのか。そうかもしれない。それこそが「幽霊」の正体で、あの瞬間、リザヴェータの眼は、彼が老婆を殺したから、また自分をも殺そうとしているからではなく、人を殺さなくても彼の奥深い内部にきっとあったはずの「或る危険な何ものか」を見据えていたのだ、と小林はそう読んでいたのかもしれない。今、彼が本当に思い出そうとしているのはそのことなのだ、と。「或る秘密」は、俺がリザヴェータを殺したという特定の秘密だったが、彼自身であるような「「秘密」」の方は、彼が殺したと殺さなかったとにかかわらず、彼自身に対して存在している秘密だったのだから。であれば、殺す以前からリザヴェータのことを愛しんでいたということがこのときラスコーリニコフに「はっきり」したのではないか。じっさい、犯行以前から、こう感じていたかもしれないのだ。もし婆さんを本当に殺しても、この女の眼にだけは、殺したのは自分だと示し、自分自身であるような「「秘密」」、彼の内部にある「或る危険な何ものか」を曝け出してもいい、と。」
(山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時』)
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