「そうでなくとも他人のいじめとおどしの前に自分で自分を滅ぼし続けていたようなこういうおとなしい女を殺す感触がどのようなものだったか。ラスコーリニコフはこの瞬間、そのような彼女に見据えられてどんな感触を強いられたか。我々もラスコーリニコフとともに斧を振り上げて彼女の眸を正視し、覗き込む勇気を持たねばならない。誤読を恐れず推断しよう、おびえたこどものような、その「おとなしい眼」は、すでにあのときその「暗い可能性」(キルケゴール)においてこの殺人者を滅ぼし始めていたのだ、と。リザヴェータの死後、ソーニャがこの「愛の業」を継承し遂行する。
たとえば、ラスコーリニコフによる告白の瞬間、ソーニャが殺される間際にリザヴェータのとった所作を反復し「こどものようなおびえ」を示す、名高い場面がある(第五部第四章)。彼女はそのとき「こどものような微笑」を浮かべる。「唇が憐れに歪んだ」と言い換えるまでもない、これらはそのまま、まさに殺されようとしていたリザヴェータの表情にほかならない。ラスコーリニコフは自白によってソーニャをまさに殺そうとしているわけだが、ここで注意すべきは、同じ「こども」のようなおびえと微笑が最後にはラスコーリニコフにも表れるということである。これは何を意味しているのか。
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今、ラスコーリニコフの顔には、彼のキャラクターに反する徴──リザヴェータ/ソーニャと同じ「こども」のようなおびえと微笑──が剥き出しになっている。心理の次元では、これは、リザヴェータの経験した恐怖がソーニャを介して彼に伝染したということを意味するが、では、恐怖のこの転移は、彼のリーチノスチの次元では何を意味しているのか。ラスコーリニコフがソーニャに告白したときにリザヴェータのおびえと笑みが彼女に現れたという事実が、彼の告白が犯行の反復であるということを意味しているのだとすれば、それによって殺されたそのソーニャと同じ表情がラスコーリニコフに浮かぶということは、彼もまたこの瞬間に殺されんとしていたということを意味してはいないか。だが、誰が彼を殺すのか。ソーニャか。リザヴェータか。取り消すつもりはない、私は先に推断してしまっている、彼らの「おとなしい眼」だ、と。
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ソーニャはたんに健気でやさしいのではない。天使が常にそうであるように、どこかしら不気味で恐ろしい。ラスコーリニコフの母親がその第一印象で直覚していたように、ソーニャは「怖い」のだ。しかも、彼女はとりわけソーニャの眼を怖がったのである。「それにさ、わたしはほんとに怖かったのよ。じっと見てたでしょ、あの娘、わたしの顔をじっと。あの眼がね〔後略〕」(第三部第四章)。ソーニャの、空色の静かな「おとなしい眼」の底には、見る者を脅かさずにはおかない憤激の種子が沈んでいるのだ。逆説的に響くかもしれないが、おとなしいとはそういうことなのである。」
(山城むつみ「ソーニャの眼──『罪と罰』」)