忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<新世紀禁欲

「もちろん司牧がそのまま統治術に受け継がれたわけではない。すでに司牧の闘争たる宗教戦争には触れた。それはある意味で、さまざまな鬩ぎ合い戦いの灼熱のなかで窯変していったのである。彼〔フーコー〕はまさに司牧が領導する「導き」への「抵抗」としてさまざまな宗教運動を、「反-導き」を挙げていく。ある導き、ある行動のあり方の切りのない強制に、ある「舵取り」に、昂然と抵抗し、拒絶し、別の仕方を試そうとすること。フス派とその分派、タボル派やウトラキスト。あるいは女性の側からする司牧への抵抗として、マルグリット・ポレートやジャンヌ・タバントンなど焚刑に処された女性神秘家を挙げ、そして当然一六世紀スペインの神秘家たちやウィクリフの名を挙げることになる。また、フーコーは一八世紀に「秘密結社」が流行したことを指摘し、これは宗教的ではあるが政治的・社会的革命を目指すものであり、常に「別の行動」を探究するという側面、「別様に導かれること」を求めつづける側面があったことを強調している。また、「医学は司牧から受け継いだ大いなる権力であり」、「宗教的な分離派」が多く「医学的な指導への抵抗と結びつくことができた」理由もここにあると語っている。……
 この「反-導き」すなわち司牧権力への抵抗は、「意外かもしれないが」禁欲主義として現れるとフーコーは言う。禁欲、苦行は、自らの身体をキリストのそれのようにすることであり、自己との戦いであり導きへの服従の拒否であり、彼はこれをアスリートの戦いのようなものだと形容している。つまり、キリスト教は「禁欲的宗教ではない」。それはむしろ司牧的な宗教というよりも司牧そのものである。禁欲者は、その苦行と禁欲の──強度が問題ではない、「方向づけ」「やり方」の──過剰さにおいて、司牧的な導きを逸れていこうとするのだ。」
(佐々木中「ミシェル・フーコー、生存の美学の此岸で」)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R