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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<長篇小説は二度死ぬ

「叙事文学の意味するところでは、現存在[Dasein]はひとつの海なのである。海以上に叙事的なものはほかにない。海に対しては、もちろん、実にさまざまな態度をとることができる。たとえば、浜辺に寝ころんだり、寄せては砕ける波の音に耳を傾けたり、波に打ち寄せられる貝殻を拾い集めたりできる──このようなことをするのが叙事詩人である。だがまた、海を航行することもできる。それは、何やかやの目的のためであったり、何の目的もなくであったりする。航海に出て、はるか沖のかなた、周りには陸の影もなく、目にするのは海と空ばかりであるところを、縦横に走り回ることができる──このようなことをするのが長篇小説作家なのだ。彼はまったく孤独な者、沈黙せる者である。叙事的人間はただ休らっている。叙事詩の世界では、民衆[Volk]は、一日の仕事を終えたあと、休息する。そしてじっと聞き入り、夢想し、拾い集める。長篇小説作家は民衆から、そして民衆の日々の営みからみずからを隔絶してしまっている。この、孤独のうちにある個人こそ、長篇小説が生まれる産屋なのである。孤独のうちにある個人は、自分の最大の関心事についてさえ、もはや他の範例となるように語ることができず、誰かからの助言をもらうこともなければ、誰かに助言を与えることもできない。長篇小説を書くとは、人間の生の描写において、他と通約不可能なものを極限にまで押し進めることにほかならない。長篇小説を本来の叙事詩から区別するものが何であるのかは、ホメーロスの作品、あるいはダンテの作品を思い浮かべるなら、誰でも感じとれるだろう。口で伝えうるもの、これこそが叙事文学の財産なのだが、これは長篇小説を成り立たせているのとはまったく異なった性質のものである。長篇小説は、口伝えによる伝承から成り来たったのではなく、また、この伝承のなかへと流れこんでゆくのでもない。この点で長篇小説は、散文の他のすべての形式──メールヒェン、伝説、諺、滑稽譚──に対して際立っている。しかし、長篇小説が際立った対照をなすのは、なかでもとりわけ〈物語ること[das Erzahlen]〉に対してであって、それは、〈物語る〉ということこそが、散文において叙事的本質を最も純粋に表わしているからである。それどころか、われわれすべての生活のなかで長篇小説を読む習慣に染まっている、あの法外な拡がりほど、内的人間の危険な沈黙に加担しているものはなく、あの拡がりほど徹底的に、物語る精神を殺しているものはない。それゆえ、長篇小説作家に対して次のような意見を述べるのは、天性の物語作者の声なのである。「叙事的作品を書物から解き放つことは……有益である、とりわけ言語に関して有益であると思う、といったことについても、私はここであらためて話題にするつもりはない。書物は現実の生きた言語の死にほかならない。ただ書くことしか念頭にない叙事詩人からは、言語のもつ最も重要な表現形成力が逃げていってしまうのだ」(アルフレート・デーブリーン)。」
(ベンヤミン「長篇小説の危機」)
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