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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<革命があるとすればそれは

「アメリカにのがれたシェーンベルクは、バルトークがそうであったように、すくなくとも物質的には恵まれない日々を送りながら生涯を終えた。また弟子のアルバン・ベルクもナチの権力者による誹謗に直接に起因する、逼塞した状況の中で世を去った。
 シェーンベルクといえば調性の揚棄とか、十二音とか常套句集の頻度数の最も高い言葉が結びつけられる。しかし、事実、彼において、何が起ったのであろうか。それを、われわれがレーボヴィッツと共通の「ことば」で言い現わせば、「規格化された現実をすべて否定すること」であったのである。これこそ、政治の世界でトロツキーが追究し、芸術作品の分析の中でロシア・フォルマリストたちが追究し、ビオメハニカ-モンタージュの手法において、メイエルホリドが、エイゼンシュタインが、さらには表現主義者たちが自らに課した課題であったのだ。たえず新しい「地平」をきりひらき、感性を拡大することによってしか、世界に統一を与える方法がないということを知っていた人間、固定した現実を拒否し、現実を固定するものたちに不断の戦いを挑んだ「革命家」たちが自らに課したものなのである。それは、一方では中途半端な知識によって現実と密通しながら、「現代的であると思われたいために不協和音をよせ集め」(シェーンベルク)る多くの自称「行動者」と、決定的に一線を画する永久運動なのだ。われわれのまわりにある多くのものは「自分よりもはるかに無知な人たちを自分のほうにひきずりこんで、ただ〈一旗あげる〉ことが大切だとすれば、それでたしかに〈成功〉することは可能である」という表現にいとも簡単にとり込まれる現象にすぎないのだ。
 たとえ、ユダヤ人がユダヤ性を解放運動の中に止揚しようとしても、ユダヤ的知がもつ、〈固定した現実〉を突き破って、彼方への離脱への道を拓り拓くことに対する敵意、ポグロムの可能性への(意識するとしないとにかかわらず)ほとんど文化的遺伝ともいうべき潜在的不安は、私が何度が繰り返して述べたように、皮相な日常の、簡単に常套句に乗る現実との、心理的もたれあいを断ち切らせたものであるという〈状況〉は、たとえ生活に筋書きが欠落しているようにみえたとしても、シェーンベルクにおいても少しも変らなかったはずである。」
(山口昌男「ユダヤ人の知的情熱」)
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