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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<言語体系の不幸

「心理とは脳髄中にかくされた一風景ではない。また、次々に言葉に変形する太陽下にはさらされない一精神でもない。ある人の心理とは、その人の語る言葉そのものである。その人の語る言葉の無数の陰影そのものである。と考えればその人の性格とは、その人の言葉を語る、一瞬も止まる事なく独特な行動をするその人の肉体全体を指す、という考えに導かれるだろう。
 さて、この性格なるものを、ドストエフスキイが、写実したとする。どういう事になるか。
 例えば、「ドン・キホオテ」を読んだ人は、檻に入れられたドン・キホオテと、従って行くサンチョ・パンザとの会話を読んで荒唐無稽と笑うであろう。ところが、この二人の間の会話には二人だけに通ずる隠語なるものは描写されてはいないのである。では、正しくかかる会話で両人は最も平凡普通の会話をしているのだ。諸君がこの会話の曖昧を、セルヴァンテスの不才に帰するも、両人の精神健康に帰するも勝手である。しかし、諸君が、諸君のあやまたぬ能力で、諸君が健康だと信ずる人間の最も精密な、感情的な会話を正直に写実してみたまえ。諸君は恐らく、ドン・キホオテとその従僕との会話と同程度に荒唐無稽の手記を得て驚くであろう。ところで、現実ではこの会話は正当に通用した。
 この場合、諸君の手記に写されなかったものは、両人の姿態と、言葉の抑揚による無限の陰影だ。この時姿態を割引きして考えるとしても、二人が会話を完全に遂行した所以は、二人が互いに相手の言葉の無限の陰影に忠実であった事による。この瞬間二人は相手の絶対言語を直観していたという点で正に芸術家であった。だが、かかる瞬間は、まことに、実生活中で、人目をしのんで明滅する瞬間なのである。では、写実とは常に、それが正確であれば正確な程、荒唐無稽と見えるのであるか。正にその通りである。自ら写実派と公言するドストエフスキイの作品に就いて、しばしば言われるその怪奇性の如きは俗流の幻に過ぎぬ。彼の怪奇性は、彼の写実主義において捕らえられる時、初めて正当に人を動かす真実となる。」
(小林秀雄「アシルと亀の子 IV」)
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