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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<透明な嘘

「言文一致とは、その言語(俗語)が抽象的であり、なおかつ普遍性へと開かれているという虚構を構築することにほかならない。そのような虚構によって、はじめて、対外的には普遍的な「民族」として相対することが可能になり、対内的には「市民」相互の抽象的な交通が可能になる。ところが、元来は一地方の特定の階級の、それも基本的には男性の言葉でしかなかった俗語は、いかなる意味においても抽象的でもなければ普遍的な言語でもありえない。マルティン・ルターが『聖書』をギリシア語からドイツ語に翻訳していた時、悪魔が訪れて、ルターはそれにインク壷を投げつけたというエピソードは、俗語革命の不可能性を言い当てている。俗語革命と、それに基礎づけられた国民国家という虚構は、それが成立して以降も、不断に「悪魔」を呼び込む。それは、たとえば丸山真男の言う「超国家主義」というかたちをとるものでもあろう。それはともかく、逍遥にとって、少なくとも当時の日本においては、ルター以上に俗語革命は不可能に見えたのであり、それゆえ、国会開設も時期尚早だと考えたのである。
 しかし、とにかくにも逍遥、二葉亭の線において俗語革命は強行され、国会開設も実現された。これによって、維新後の西南戦争から自由民権運動にいたる内戦状態は収束したのである。私見によれば、その後、日清戦争の終結の時期の「である」体の採用によって、日本の俗語革命も一応の完成を見る。その功績は二葉亭の翻訳(ツルゲーネフの「あひびき」改訳)と尾崎紅葉の小説『多情多恨』に帰せられるだろう。翻訳による俗語革命は、それが普遍的な言語であることを僭称するし、『多情多恨』は、そのタイトル自体が逍遥の言う市民的「人情」の表現であることを告げている。」
(スガ秀実『吉本隆明の時代』)
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