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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<抽象かつ具象

「私のいわんとするところを一言にしていえば、二つの言語、特に二つの詩──原詩とその訳詩──の言葉は、言語の深層構造において出会うということである。ここにしか、二つの言語、特に詩の訳のための二つの言語のミーティング・プレイス(出会いの場所)はない。もっぱら表層構造において出会いの場を作ろうとするから、翻訳は不可能かどうかという不毛な議論が生まれてしまうのである。
 私のいう「深部構造」とはチョムスキーの概念とはちょっと違っている。文法の深部構造だけが問題ではない。音調、抑揚、音の質、さらには音と音との相互作用たとえば語呂合わせ、韻、頭韻、音のひびきあいなどという言語の肉体的部分、意味の外周的部分(伴示)や歴史、その意味的連想、音と意味との交響、それらと関連して唇と口腔粘膜の微妙な触覚や、口輪筋から舌筋を経て舌下筋、喉頭筋、声帯に至る発声筋群の運動感覚(palatability とは palate 口蓋の絶妙な感覚を与えるものであって私はこの言葉を詩のオイシサを指すのに使っている)、音や文字の色感覚を初めとする共感覚がある。さらに非常に重要なものとして、喚起されるリズムとイメジャリーとその尽きせぬ相互作用がある。
 そして、最後に、それらの要求水準とでもいうべきものがある。たとえば、ある詩のイマジャリーにはその水準がある。音についても、他の何についても同様である。ある詩のイマジャリーのプレグナンス(充実度──形よくふくらみ張り方というか)が中途で突然低下するような時には、それが意図的に一つの効果を狙った場合を除くが、一般には読む者に言いがたい不快感を感じさせる。特にそれが詩であれば、すぐれた詩ではありえない。また訳詩であれば、訳に問題があるのか、原詩に問題があるのか、その両者かである。一つの訳のイマジャリーにはそれぞれ固有のプレグナンスがあるはずである。訳詩もそうでなければならない。」
(中井久夫「訳詩の生理学」)
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