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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<うちの座長が言うことには2

「これは本番のための稽古をしていても結局行き着く問題なのだけど、他人に言葉がかからない人が多い。言葉だけじゃないな。演技のすべてが他人への関わりになっていない人が多い。もちろん、演じている人たちは関わっているつもりだ。共演者と関わるのが演技の基本、なんてことはみんなわかっている。(posted at 04:49:45)
それでも、いろんな点から僕は「その演技は他人と関わっているように見えない」ということを感じる。まず、第一の問題として単純に見ていない。台詞を言う時に相手役を見ない人が驚くほど多い。もちろんじっと見つめ続けろとは言わないが、とりあえず台詞は相手を見て言う。これだけで随分と違う。(posted at 04:52:27)
台詞を言う、という行為はともすれば単なる発信になってしまうが、見る、という行為は受発信を含む行為だ。相手役を見た途端、俳優は「見る/見られる」の関係性の中に置かれる。身体があって、「見る/見られる」があればそれだけでドラマだ。たとえ、台詞なんかが無くっても。(posted at 04:54:02)
台詞を与えると俳優は目の前の共演者を見失って、台詞と自分とのお付き合いの世界に没入してしまう。自分がその台本をいかに解釈したか、ということを豊かに表現し始めてしまう。そんな表現はいらない。他者への関わりしかその場では力を持たない。「見る/見られる」の関係性の中にしかライヴはない。(posted at 04:56:07)
では、見てさえいれば問題は解決するか? いや、じっくり相手を見ているにも関わらず、相手と関わっていない演技は多い。そこで、次に問題になってくるのが相手へのリクエストをいかに持つかということだ。「自分が台詞とどう関わるか?」に意識が向くと、相手役への欲求を見失う。(posted at 05:00:13)
相手にリクエストを突きつけるのが苦手な人が多い。原因の一つは、「見る/見られる」の関係性の中に身を置くのを忘れていること。そして、相手に対しての遠慮、という問題がある。他者へのリクエストを欠いた演技は孤立した演技になってしまう。では、なんでこんなに遠慮してしまうのか?(posted at 05:05:31)
気になる現象として、演技中にまったく重心がブレない人が多いということがある。それだけ聞くとなんだかいいことのようだが、違う。かかとに体重を乗せてまっすぐに立っている俳優は、どこにも重さを預けていない。いわゆる「腰が引けた」芝居になってしまう。(posted at 05:07:28)
もっと言葉に、相手役に、体重をかけてほしい。それはたまたま起きている現象ではない。相手に体重をかけない、重心の動かない俳優は、他者に重さを預けることを極端に恐れている。分解すれば、自分が嫌われること、他者に不快を与えることを、恐れている、のだろう。(posted at 05:09:19)
「誰にも迷惑のかからない」、そんな立ち方をしないでほしい。「見る/見られる」の関係は、身体に置き換えれば「触れる/触れられる」の関係といってよいだろう。触れるからには重さがかかっている。相手の体重を引き受け、自分の体重を預けなければ「触れる/触れられる」という関係性を築けない。(posted at 05:13:11)
相手に声がかからない、台詞があたらない、とは声が相手に触れていない状態だ。重さをかける感覚をぜひ思い出して欲しい。その為にリラックスが必要になる。自分の筋肉で自分をしばりつけるような緊張状態の中では、重さが相手にかかることは難しい。棒立ちの状態にならないために、やわらかく、立つ。(posted at 05:16:20)
別問題として思うのは、俳優の日常生活において、とにかく人との関わりが希薄に、薄弱になっているんじゃないか、ということ。よく「芝居をするなら恋愛しろ」てなことが言われるのは、濃密な人間関係のレッスンをしろ、という意味だろう。どうも、人間関係が相互不干渉的になっている人が多い。(posted at 05:23:43)
でも、僕自身そのようなスタンスになっていかざるを得ない心情はとてもよくわかる。というか、僕だって多くの場面で相互不干渉的になっている。なぜか? 単純に、出会う人間の数が多すぎる。これは僕の職業柄ではなく、学生でもフリーターでもそうだろう。(posted at 05:26:37)
携帯電話、あるいはSNSのようなメディアのおかげで僕たちは「関われる可能性を持った相手」がすごく増えてしまった社会に生きている。一度会っただけの人とアドレスを交換しさえすれば、理論上はいつでも連絡を取り合うことができる。すべてに重みのある付き合いをすることは不可能だ。(posted at 05:29:21)
では、人はどうやって自分の関わるべき相手を選べばいいんだろう? 好きだから、とか、たまたまとなりにいたから、で良い気もする。いや、選ぶ立場に自分がいる、と考えることが傲慢な気もする。でも、僕たちは実際に付き合う相手を選べてしまう。絶交する相手を選べてしまう。(posted at 05:39:22)
ヘンな言い方だが、自分に利益をもたらす人と、あまり付き合おうとしない方がいいんじゃないか。いや、誰だって自分になんらかの利益をもたらす人と付き合うのは当然だが、それが基準になっていくとエゴでしか人とつながれなくなってしまう。自分を好きな人、自分によくしてくれる人、は要注意だ。(posted at 05:42:21)
近頃、違和感を感じるのは、やたらと自分の周囲の人への感謝を口にする人だ。ありがとう。まあ、いい言葉だ。大切な感覚だ。が、しかし、自分によくしてくれる相手に対して感謝し、恩返しをすることは、結局、自分のためなんじゃないのか? もっと「ありがたい」ことをしてもらうための布石。(posted at 05:47:16)
自分もいつの間にか誰かに「ありがとう」といってもらいたくなる。期待に応えたくなる。そりゃあ、誰だってそんなことを言われたら気持ちがいいからね。でも、本当だろうか? 本当にそんなことのために生きたいだろうか。大切なことだけど、振り回されるほどのことじゃない。(posted at 05:49:04)
気に入られたい、愛されたい、ていう欲望や、嫌われたくない、仲間はずれにされたくない、見下されたくない、つまらない奴と思われたくない、なんていう怖れは、きっと誰にだってある。僕なんてそんなものしかない。だからこそ自分と自分の周囲の人だけを大切にしていたら、きっとそこから出られない。(posted at 06:02:28)
怖れずに他人と関わるためには、他人に好かれるかどうか、気に入られるかどうか、よりも大切なことを持てばいいんじゃないか、と僕は思う。特定の個人に対しての愛じゃ、その愛を失う怖れから決して自由になれない。そういう付き合いはほんのわずかでいい。あとは、愛をもって仕事に取り組めばいい。(posted at 06:09:25)」
(広田淳一@binirock「Twilog - 2016年06月21日(火)」)
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