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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<うちの座長が言うことには4

「連投になってしまっているけれど、『ロクな死にかた』の稽古で気づいたことをこの際、書いておこう。沼田星麻と石本政晶とのシーン、「毬井」と「たっくん」のシーン稽古をしていた際に思ったことを。(posted at 22:32:06)
これは特にこのふたりがどうという話ではないのだが、僕は俳優たちに対して「耳が良くない」というダメ出しをすることがしばしばある。もっと「耳を良くして舞台に立ってくれ」と。これは抽象的な表現なので、我ながらもどかしい感覚で、あまりうまく伝わらない。それをちょっと具体的に書いてみよう。(posted at 22:33:51)
人間にはそれぞれ「聴力」があって、中野智恵梨のように未だにモスキート音が聞こえる、なんて人間もいるが、ここで僕が言っている「耳の良さ」はそういった具体的な聴力の話ではない。器官としての耳が持っている感度のレベルの話ではなく、音声をいかに脳内で処理するかという話だ。(posted at 22:35:25)
僕はしばしば俳優に対して「距離感の無い声だなあ」という批判をする。声を発してはいるが相手役にちゃんと当たっていない、掛かっていない、ということを感じる時だ。しかし、そういった場合、相手役に音波が届いているかどうかで言えば確かに届いてはいるのだ。でも台詞は届いていない。これは何だ。(posted at 22:39:55)
いろんな俳優のいろんな発話を観ていると、確かに台詞が相手にビンビンと響きわたり、突き刺さるような俳優がいる。そういった俳優は共演者も、観客も巻き込んでいく力をもっている。対して、いくら大声を張り上げても相手に刺さらない声というものがある。当然、そういった俳優は観客を巻き込めない。(posted at 22:41:25)
この差はなんだろうか? 単なる演出家の言いがかりではないのか? あるいは好き嫌いの問題ではないのか? その誤解の可能性は常にある。が、どう考えても観客目線で声の刺さる俳優とそうでない俳優はいる。それは声の大小の問題とは別の問題だ。いわば声の焦点/フォーカスの問題がある、ようだ。(posted at 22:43:00)
声のフォーカスの問題は、俳優が抱える対人関係の問題とも直結していてとても個人的な問題にも連なっている。それは今は置いておこう。一般的に論じるにはあまりにも難しい問題だからだ。今、ここで問題にしたいのは俳優が声を出す際に感じる空間の問題だ。その広さ/深さ/質感の問題だ。(posted at 22:45:48)
結論から言えば、俳優の声が相手役に届く(と、少なくとも僕が感じる)時、その俳優は相手役と空間を共有している。そしてその空間とは、相互に影響を与え合う可能性をもった、いわば交流の場として成立している。どういうことか。(posted at 22:48:27)
人間同士は、物理的に同じ空間にいる場合でも、それを相互に影響を与え合う場としては共有していないことがある。たとえば満員電車にのっている場合、イヤホンを着け、スマホをいじっている隣同士の乗客は、身体が触れ合うほどの近距離にいながらにして、まったく空間を共有していないとも言える。(posted at 22:51:48)
夢中になってスマホをいじったり、あるいは読書に興じたりしている際、私たちは今日乗った電車の隣の乗客を覚えていないことがあるだろう。その人とは、少なくとも相互に影響を与え合うような形で空間を共有したとは言い難い(ま、袖触れ合うも他生の縁とは申しますが…)。(posted at 22:53:35)
距離感がゼロであっても、空間を共有していない場合はある。反対に、サッカーのような広い空間を使うスポーツの場合、サイドチェンジをする直前のサイドバック同士が数十メートルの距離を隔てて、アイコンタクトを取り、同じ空間を共有することもある。あるいは国際電話なんてこともある。(posted at 22:55:29)
物理的な距離とは別に、人間同士には「相互に影響を与え合う場」を共有しているかどうか、という距離感の問題がある。何が言いたいかというと、空間の共有の仕方において重要なのは実際の物理的な距離というよりも、その空間の共有の仕方における質なのではないか、ということ。(posted at 22:57:48)
俳優が演技をする際にちゃんと相手役に声が届くかどうか、という問題は自分が今いる空間をちゃんと相手と共有している空間だと認識できているかどうかと深く関わっている。一人で芝居をするなよ、言われてしまう俳優は、みんなが見えているけど一人でいる。満員電車の中みたいにして舞台に立っている。(posted at 23:05:18)
相手に声が届かない、とか、一人で芝居するな、と言われてしまう俳優もいつだって相手役に向かってしゃべって来ただろうし、まさか一人で芝居をしようなどと思ってはいないだろう。問題は自分のいるその空間を誰と共有しているか、だ。相互に影響を与え合う場として、その空間を認識できているか、だ。(posted at 23:08:29)
僕が考える「俳優が相手役と空間を共有している」というのは相互に影響を与え合う可能性をもった場、いわば「交流の場」として空間に共に在るということだ。その相互性の中でだけ、相手に届く声が出せるのではないだろうか。優れた俳優は、共演者だけではなく観客のいる空間もまた「交流の場」に含む。(posted at 23:27:22)
もちろん共演者と共有している空間と、観客と共有している空間とは質が異なるものではあるが、俳優が相互に影響を与え合う、という意味では同じく重要な意味を持った空間である。(posted at 23:28:37)
てな感じで、『ロクな死にかた』の稽古場まとめレポートでした。いやあ、長々連投ツイート失礼いたしました笑(posted at 23:29:13)
あ、違う。言い残しがありましたね。なぜこの空間の話が僕の中で「耳が良くない」という表現になるのか。えーと、満員電車の中にいるような「みんなが見えているけど一人」という状態の俳優は、言うなれば自分を中心点・出発点とした同心円状に音波を一方的に発している訳です。兎に角、発信はしてる。(posted at 23:41:59)
だけど、俳優にとって必要とされる空間の意識、耳の良さ、というのは、自分の音波が届いた先、同心円の端っこでその音波がどのように響いているのか、届いているのかについて把握している種類のものだ。どう聞こえているのか、が、わかっている状態。客席にひとつ耳を置いておく、ような感覚。(posted at 23:43:38)
思うに、滑舌の悪さというものにはいくつか原因があるけれど、その原因のひとつにはこの空間の把握の悪さという問題がある。自分の音声がどのように届いているのか、それがちゃんと把握できていれば聞き取りづらい台詞をゆっくり言うとか、言い直すとか、滑舌の悪さを別の手で克服できるはずだ。(posted at 23:46:35)
自分の声が音波としてだけではなく、意味として届いていることを把握していればなお良いだろう。きっとすぐれた政治家のすぐれた演説においては、その話を聞いている聴衆が音声を聞き取っていることはもちろん、意味を受け取っていることも政治家本人が把握していたはずだ。(posted at 23:49:13)
自分の耳を客席にひとつ置くとか、聴衆の心理に言葉がどう響いたかを把握するとか、若干超能力地味た話に聞こえるかもしれないが、これもきっと技術論だ。もちろん才能はあるだろうが、結果として起きていることは決して超能力ではない。(posted at 23:50:38)
声をちゃんと届ける、というのは、言い換えれば、反応しうる相手がそこにいると信じて声を投げかけること。それはきっと、何もない青空に向かって無闇にヤリを投げるような行為ではなくて、ちゃんと糸で繋がった凧を、手応えを感じながら操作するようなそんな行為ではないか、と思う。(posted at 23:58:34)
そういったわけで、声を発することは耳の良さの問題と繋がっているんじゃないか、と僕は思う。以上です。今度こそ笑(posted at 23:59:13)」
(広田淳一@binirock「Twilog - 2017年03月07日(火)」)
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