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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<環境と殺生

「……それにしてもなによりもわたしを困惑させるのは、「それにしてもなんだってまたわが国の民衆は自分の憐憫の情を急にこんなに恐れるようになったのか」という疑問である。「他人に宣告をくだすのはひどく心の痛むことだからな」と人は言う。だがそれがどうしたと言うのだ、心を痛めながらその場を立ち去ればいいではないか。真実は諸君の痛みよりずっと価値の高いものなのだ。
 実際のところ、自分たちだってどうかしたときにはその犯罪人よりもずっと悪いことがあると、もしもわれわれがそう考えているとすれば、それだけでもわれわれは、その男の犯罪についてその半分がたは自分たちにも責任があると認めていることになるではないか。もしもその男が大地によって書き与えられた掟を破ったとするならば、われわれ自身も、その男がいま自分たちの前に立っているということに責任があるわけである。もしもわれわれのすべてがもっとよい人間であるならば、その男ももっとよい人間になっていまこうしてわれわれの前に立つようなことにはならなかったはずではないか……。
「するとそこでつまり無罪ということになるわけですか?」
 いいや、むしろその反対である。それだからこそここで真実を口にして悪を悪と呼ばなければならないのだ。だがそのかわりその判決の重荷の半分を自分のものとしてその身に引き受けることになる。われわれにもまた罪があるのだという考えをいだいて法廷へ足を踏み入れることにしようではないか。いまあらゆる人がこれほどまでに恐れている、そして法廷を出るときにわれわれがいだかされることになるこの心の痛みこそ、われわれにとっての刑罰ということになるのである。もしこの痛みが真実で強烈なものであるならば、それはわれわれを浄めよりよい人間にしてくれるだろう。われわれ自身がよりよい人間になったならば、われわれは環境をも矯正しよりよいものにすることができるわけではないか。ただこの方法によってのみ環境をも矯正できるというものではあるまいか。ところが自分だけが苦しまなければそれでよいと、自分自身の憐憫の情に頬かむりをして、やたらに誰でも無罪にしてやる──これではあまりにも手軽というものではあるまいか。こんなことをつづけていたらそれこそだんだんに、犯罪などはぜんぜん存在しない、なにごとも「環境のせいなのだ」という結論に到達することになってしまうではないか。そしてあげくの果てには、これを推し進めていけば、犯罪をむしろ義務であると、「環境」に対する堂々とした抗議であるとさえ考えるようになるに相違ない。つまり「なにしろ社会がこんなに醜悪にできているのだから、こんな社会では抗議をせずに犯罪を行なわずにとても生きていけるものではない」「社会がこんなに醜悪にできている以上、手にナイフを持たずにはとてもそこから抜け出せるものではない」というわけである。──これこそ環境論の説くところであり、環境の圧力を十分に認め罪をおかした人間に対する憐憫の情を高唱したうえで、なお人間に環境との戦いをその道徳的義務として課し、どこで環境が終わり、どこで義務がはじまるかという境界を人間のために設けているキリスト教とは、まさに正反対なものなのである。人間を責任を持つべきものとしながらも、キリスト教はそのことによって人間の自由をも認めている。ところが人間を社会組織のどんな小さな欠陥にも左右されるものとして、環境論は人間をまったく無人格なもの、個人のありとあらゆる道徳的義務、ありとあらゆる自主性からまったく解放されたものにしてしまい、想像しうるかぎり最もいまわしい奴隷状態にまでおとしいれているのである。」
(ドストエフスキー「環境」)
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