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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<さんせりて

「ドリュ〔・ラ・ロシェル〕の生涯が、第三共和制末期フランスの、……時代と個人の通常の関係とは異質と云ってよいほどのファタルなものであるとしても、にもかかわらず私には自殺と遊蕩を唯一の道連れにしたこの不器用な作家の生き方こそが、唯一つの時代にたいして誠実たりうる方途を示唆しているように思われていた。
 誠実、という言葉が空疎にしか響き得ない事は解っている。誠実という漢語を、真面目さ、真剣さ、逃げ場のなさといったニュアンスをもって捉えれば、フランス語のサンセリテなる言葉の意味、文脈に即したものになるだろうか。ここで私が誠実という言葉で示したいのは、時代の害毒にたいして、その歪みと汚さにたいして、その姿勢は色々あり得るにしても、逃げる事なく引き受ける、直面するというような事であり、その点でドリュは、まったくもって「誠実」な作家だった。
 かような誠実さのためには、二つの要件があると思われる。第一には、時代全体に対する感じ易さであり、第二にはその汚れに対して染まりきれない純真さの保持である。
 感じ易いというのは、ただ敏感であるばかりではない。自他の区別を越えて大きな責任感を保持することである。つまり雑多な事態にたいして痛みを感じるとともに、自分の事として引き受けるような感受性の謂である。故にこの感じ易さは、自分の位置と立場を計測し、行為と思索の圏域を確定するような教条とは常に無縁である、というよりもどうしようもなくそこからすり抜けてしまう。
 だが一方で純真さを保ちえないのであれば、如何なる感じ易い心も、ついには痛みを感じなくなるだろう。とするならばこの純真さはきわめて逆説的な性格を持たざるをえない。つまりそれは脆く染まり易い純真であってはならないのであって、強靭な、いかなる敗北にも負けることのない無垢でなければならないのである。
 故にこの逆説としての純真は、感じ易さとある種の緊張を形成せざるをえない。と云うよりも、その緊張を生きる事こそが、誠実ということになるのだろう。故に誠実は、精神の強さと弱さの双方を抱懐し続ける努力にほかならない。
 死を想う事が、誠実の別名たりうるのは、以上のような事情においてである。自殺を念頭に置きつづける事は、自己の純真さの保護のために、意志をもって生命を断つ覚悟の準備であると同時に、常に折れるような弱く柔らかい心を自己の中に持ち続ける事でもある。自殺という想念がもたらす二つの約束が、人に末世において誠実に生き得るという希望を齎す。」
(福田和也「希望と誠実の自死」)
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