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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<精神分析の生産性

「……ラカン的な立場からすれば、分析家とは、分析主体〔=被分析者〕の要求のうちに、単なる要求以上の何かを聞き取る《他者》の役割を演ずると同時に、いざ解釈の段になればその役割を放棄するのでなければならない。分析主体に対して明快でわかりやすい意味づけを与えるならば、ある種の依存を引き起こしてしまい、これを放棄させるのは非常に困難である。つまり分析主体は、自分は解釈を要求してそれを受け取りさえすればよいと心得るようになり、分析家は中身の詰まった壷のように知識を持った者であるとみなされ、分析主体のほうは空の壷のようなものであり、分析家に伝えられること以外は何も知らない、というぐあいになってしまう。分析主体と分析家のあいだに、これほど親と子、教師と生徒のような関係を作り出してしまう事態はほかにない。また、これほど強く依存心を呼び起こし、分析の初めから分析主体を幼児化し、分析を構造的に終わりのない養育的もしくは教育的な過程へと変えてしまうこともない。さらに、これは何にもまして、分析主体の要求を即座に満たし、分析主体からの要求と分析家からの応答、作用と反作用の悪循環へと導いてしまう。その結果、分析家が分析主体の思うままに操られるといったような事態をもたらすのである。……匙で食物を与えてやるようなこうした一方向的な意味づけは、それがいかに鮮やかで洞察に満ちたものであろうとも、分析家がすべきことではない。分析家はむしろ、分析主体の好奇心を喚起し、彼の連想の過程を始動させなければならない。解釈は分析主体がその意味を推測しようとして必死にならざるを得ないような仕方でなされなければならない。
 このことは、謎めいた多義的な解釈を施すことによってなされる。分析主体はこれらを意識的な水準で理解しようとすることを余儀なくされるだけでなく、無意識的な水準においてもまたそうなるのである。このような解釈は反響をひきおこす。つまり無意識が動き出すのである。あいまいさや多義性を拒絶する意識的思考の諸過程は、常にただ一つの真の意味があるはずだという信念へと委ねられているが、すぐに欲求不満に陥り、身動きが取れなくなる。しかし無意識が動き出せば、分析家が口にする謎めいた言葉は、それに引き続いて産出される夢や幻想のなかに道を見出すのである。つまり、「理性的な思考」が退き、無意識の欲望の連想過程がこれにとって代わるのである。
 解釈は真か偽か、正しいか間違っているかよりもむしろ、生産的であるか否かが問題であるとフロイトは考えていた。この考えをじつに多くの精神分析家が受け入れている。しかしここで問題になっている生産性とは、無意識的な形成物の水準での生産性であって、自我の言説における生産性ではない(後者の例としては「私はきのうあなたが言ったことについて考えていました。ある点については同意します。しかし……」などのような言明が挙げられる)。私たちが関心を引かれるのは、分析主体の無意識が解釈のうちに何を見出すかである。すなわち、《他者》の役割をするものが与えられたとき、分析主体の無意識によって何が見られ投射されるか、なのである。
 それゆえ、ラカンは真正の分析的解釈の特徴は「神託的発話」であると述べた。ちょうどデルフォイの神託のように、分析家は実に多義的な言葉を発する。そのため、かりに理解されなくともそれは反響し、なぜ分析家はそのようなことを言ったのかを知ろうとする好奇心や欲望を喚起する。さらには、あらたな投射をも呼び起こす。」
(ブルース・フィンク『ラカン派精神分析入門──理論と技法』)
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